2020年9月3日

慈恩禅寺:神秘的なブルーの池を囲む禅宗庭園

慈恩禅寺:神秘的なブルーの池を囲む禅宗庭園

禅宗庭園
「慈恩(じおん)禅寺」は、岐阜県郡上八幡市にある寺院です。この寺院は歴史的なエピソードも豊富ですが、最も気になるのは、他では見たことのない色をした池を囲む禅宗庭園です。

受付から書院へ案内され、そこからこの庭を眺めることができます。残念ながら庭へ下りて散策することはできません。

対面の急な山肌に細い滝が流れ落ち、祠や橋のようなもので美しい情景が創り出されています。岩肌を削るように庭がつくられているのも目を引きますが、最も驚かされるのは池の水面の色です。池の水が鉱物を含んでいるのでしょうか、薄いブルー色をしているのです。


池の水面
これだけの禅宗庭園ですが、いつごろつくられたといったような情報はありません。この寺院の本堂と書院は1896年再建で、築120数年しか経っていないことになります。これは、集中豪雨で裏山が崩れ、建物がすべて倒壊したためのようです。裏山というと庭の対面にある崖のことでしょうから、庭も全壊して修復された可能性が高いと思います。


この寺院を創建した遠藤慶隆とは

創建は1606年で、郡上八幡城主の遠藤慶隆(よしたか)が創建しました。江戸幕府が成立したのが1603年ですから、この寺院は江戸時代の初めにつくられたということになります。

慶隆が郡上八幡城の城主になった経緯はかなり複雑だったようです。

まず、遠藤一族は慶隆(1550-1632)が家督を継ぐずっと前から、郡上八幡を支配する豪族だったようです。豊臣秀吉が支配者だった頃、郡上八幡は稲葉貞道のものになり、慶隆は別の場所へ移封されてしまいます。

失地回復のチャンスがやってきたのは、関ケ原の戦いの前哨戦が始った時でした。稲葉貞道が西軍に属していたので、慶隆は東軍に属して郡上八幡城を攻めます。ところが、城を攻め落とす前に稲葉が東軍に寝返り、攻略の大義がなくなってしまいます。

それでも、関ケ原の戦いの後、慶隆は東美濃の平定に尽力した功績で、別の領地へ移動する稲葉貞道の跡を継いで郡上八幡城主となりました。

慈恩禅寺が創建された1606年には、息子の慶勝が、従五位下の官位を受けています。その慶事を受け、この寺を創建したのではないでしょうか。

ところが、この慶勝は「大坂の陣」のあった1615年、京都で病死してしまいます。息子に跡を継いでもらいたかったのでしょうが、その願いはかないませんでした。境内に慶勝の霊廟が建立されています。


施設の情報

慈恩禅寺

拝観料 大人500円
拝観時間 午前9時~午後5時(12月~2月は午後4時30分)



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