2020年12月30日

縦目楼に関する追加情報

 縦目楼に関する追加情報

完成時の姿 建設会社のホームページより 

縦目楼の中にある茶室たち(続き) 

縦目楼は元々まったく別々の建物を一つにまとめたので、外観としてはかなりハイブリットな印象です。2つをくっつけてしまったのですから、外観は再現されたものではないと思います。しかし、内部は忠実に再現されています。用いられた木材も、繰り返しになりますが、監修に入った茶人の見立てだと思いますが、こだわりが実感できます。

滝本坊の方は小堀遠州が、同時代の松花堂昭乗(しょうじょう)という茶人僧侶のためにつくった空間を再現しています。小堀遠州が滝本坊につくった茶室というのもあって、「閑雲軒(かんうんけん)」という名前がつけられています。 京都府八幡市に「松花堂庭園」という所があって、その中に古い図面に基いて再現された閑雲軒があるようです。

さて、縦目楼の滝本坊ですが、パンフレットには「書院」と書かれていて、「茶室」と書かれていません。茶室を再現したのか、閑雲軒ではない別の空間を再現したのかよくわかりませんでした。


正面に「向峯居」

有名な鎖の間に入るためにはお茶会に参加しないといけませんから、少し悩みましたが参加させてもらうことにしました。色々な観光地でお抹茶とお菓子をいただいてきましたが、今回が最高です。鎖の間という本物の空間で、着物姿のお茶の先生が目の前でお抹茶を立ててくれます。先生の前にはお湯を満たした茶釜が置かれ、本物の茶道具が並んでいます。座らせていただいた場所から正面の広い窓越しに富士山が見えます。これだけは、伏見奉行屋敷でお茶を点てた小堀遠州でも味わえなかった贅沢だと思います。静岡県島田市という場所にこの茶室があるからこそ味わえる至福の一刻です。なんという贅沢でしょう。


「友賢庵」

小堀遠州の茶会に招かれた客とは逆の動きになりますが、友賢庵へ移動します。この狭い茶室の一角には狭い「にじり口」があります。小堀遠州は客をまずこの小さな茶室に招いて、その後「鎖の間」へ案内したのです。その障子戸を引いて外を見ることはできませんが、その外には客を案内する路地があり、その路地の先には待合があります。


「友賢庵」のにじり口

この茶室では、実際の茶事の集まりも行われているとのことです。茶事の場合、客はこの縦目楼の手前に広がる日本庭園の脇につくられた路地を通って、まず友賢庵に入るのです。路地は日本庭園をかすめるようにかなり長い距離続いています。通常の観光客を避ける位置にあり、多くの観光客はこの路地の存在に気づかないままかもしれません。少なくともパンフレットではそういうところまで触れていません。


別棟の待合

せっかくだからいったん外へ出た後、路地の先へも行ってみました。庭園と外部を区画する背の低い土塀の向こう側には、10を超える意匠をこらした橋が架けられた空間がありました。茶事に招かれた客はこの橋を渡って、まず小振りの門に至ります。その門をくぐると、3席ほどの待合が在って、そこで客が集合するのでしょう。それから路地を堪能しながら、友賢庵のにじり口まで進み、そこから茶室に入るのです。


橋を渡り待合へ向かう

客は友賢庵での茶事を終えると、廊下を通って鎖の間に入り別の趣向の茶事を堪能するわけです。書物から得た情報ですが、場所を変えたりすることで、茶事は延々4時間も行われたようです。小堀遠州のころは、茶事と言えば第一級の娯楽でしたからそれにいくら時間をかけても気にしなかったのかもしれません。また、伏見奉行という役職上、茶事に招いた客の多くは、純粋に茶事だけでなく、多分に政治的な関係者ということも多かったでしょう。そういう政治的な密談の時間も長くとられたのかもしれません。

参考文献:「茶人・小堀遠州の正体」 矢部良明/著 角川選書
        「小堀遠州綺麗さびの茶会」 深谷信子/著 大修館書店




田峯城に関する追加情報

田峯城に関する追加情報


完成時の姿 建設会社のホームページより


田峯城の現在の姿(続き)

田峯城のある愛知県設楽町は太平洋の海岸線から約40キロ北に向かった山奥にあります。この辺りの海岸線に面した平地はそれほど広くなく、すぐに山間になってしまいます。この辺りの山間部は、道がどこにつながっているのか、その土地の住民でないと分からないと思います。戦国時代も同様で、土地勘を持っていない限り、どこに集落があり、どこに城が潜んでいるのか分からないエリアでした。

この城は、この辺りの盆地を勢力圏とした豪族の菅沼氏がつくったものです。戦国時代、信州方面から、徳川家康が支配する岡崎方面へ向かうルートがいくつかこの辺りを通っていました。織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いが、この付近の長篠城を舞台に起こったのも、このルートがあったからだと思います。そのルートのひとつに作手(さくで)街道というのがあって、この道は田峯城の直下を通ります。菅沼氏が城の立地を決めるにあたり、この街道の存在を重要視したのは間違いないと思います。

この城のある盆地は木の生い茂る山々に囲まれており、ドローンでもない限り見つけ出すのは至難の業です。設楽町あたりから、寒狭川(かんさがわ)という川が太平洋へ向かって流れ出ていますが、流れに沿って主要幹線道路も走っています。現在、この城へ向かうには、その主要幹線道路で最寄りの間道まで行き、そこから山を登る狭い道路に入ります。主要幹線道路から間道へ入る地点までは、ナビさえあればたどり着けます。しかし、その先は少し苦労します。登り口から城の入口までは約500メートルですが、くねくね曲がった道を登るのに、資料によれば徒歩で30分かかります。多分この道が旧作手街道と同じような位置にあるのだと思います。この城は狭い道を登って行った頂点にあり、下からではその姿を確認することができません。



盆地に入ってしまうと、道の傾斜は緩くなり運転しやすくなります。しばらく農地とまばらにある住宅を通り過ぎた先の茶畑のようなところの先にこの城はありました。城域は雛壇上にいくつもの平らな部分が連続しているだけなので、どこまでが城なのか見分けがつきません。山城を実測してまとめた書物があるのですが、その記述によれば、長手方向で300メートル、短手方向で200メートルくらいあるようです。中央の最頂部の本丸が最も広い平地で、50メートル×30メートルの楕円形の形状をしているようです。

この最頂部の平地を利用して、武士の館(資料館)がつくられています。この資料館は、一見歴史的建築物のように見えますが、つくられたのは1994年ですから、築25年程度です。時を重ねたことで城館の色合いも雰囲気を醸し出してはいるのですが、本物ではないことも事実です。

参考文献:「愛知の山城ベスト50を歩く」 愛知中世城郭研究会/編 サンライズ出版
      「信濃をめぐる境目の山城と館」 宮坂 武男/著 戎光祥出版



「匠明」に書かれた武士の館(続き)

織田信長や徳川家康といった有名な戦国大名が数多く登場する戦国時代末期は、建物を建てる大工にとってはとてもいそがしい時代でした。戦国大名は戦いを繰り返していましたから、焼け落ちた城や屋敷は建て直したり、新しくつくったりしなければなりません。財を蓄え、力をつけた戦国大名はこの時代次から次へと新しい建物を建てました。この時代は一大建築ブームに沸いていたのです。

そういう時代の中で、大工の棟梁がいかに天才的な構想力を持っていたとしても、力におごった戦国大名の要求を満たすのは至難の業でした。大工の棟梁にしてみれば、受注してから考えるのでは間に合いませんから、あらかじめそのための準備がしてあったのです。その準備のうちの1つが、秘伝書「匠明」という訳です。「匠明」には神社、寺院、屋敷などその時代に建てられた建物の基本となる図面がすべて網羅されていました。

「匠明」の平面図

武士の館の図面も基本図面の1つでした。その万能平面図には、戦国大名が館を建てる場合に期待するであろう部屋が網羅されていました。そして、もっと大きな部屋がほしいだとか、部屋の数を増やしたいだとかの要求が出れば、その部分だけを付け足せばよかったのです。

上図をもとに研究者が再現
この秘伝書のもう一つの意味合いは、建物をつくるときのプロポーションの美しさをどう実現するかの秘伝でもありました。平面図の組み合わせを基本として、できあがった建物のプロポーションが美しくなるような基本的な決まりごとがすべて書かれていたのです。ですから大工の棟梁は、この本に書かれたルールを踏襲しながら計画を練り、微調整をするだけで失敗のない建物をつくることができたのです。


パンフレットのレイアウト図
この時代、設計図は「木割」といいましたが、「木割(きわり)」は「美しいプロポーションとは何か」を示す言葉でもありました。柱の寸法はいくつ、畳の組み合わせはいくつ、そういうルールを守れば、「基本の美しさ」が達成できるというわけです。このルールは、屋根のプロポーションや、天井までの高さなどすべてに渡るので、万能の秘伝書という訳です。似たものを探すと、西洋の美の基準のひとつに「黄金比」というのがありますが、そのような意味合いのものだったと思います。


研究者による立面図

この建物は、築25年を経て、建具が外れてしまったり、こけら葺きの屋根の劣化が気になり始めています。どのような保全整備を考えているのかも気になるところです。

参考文献:「匠明」 平内 政信/著 伊藤 要太郎/校訂 鹿島出版会
      「木割の話」 河田 克博/著 インターネットより




織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との戦い(続き)

武田信玄というカリスマ的な戦国大名がもっと長く生きていれば、彼が織田信長を倒していたかもしれません。しかし、武田信玄は病死してしまいます。その結果、織田信長はその息子、武田勝頼と戦うこととなりました。

武田勝頼は父親の遺志を継いで、しゃにむに京都へ向かいます。勝頼は強力な騎馬軍団を武器に、長篠城付近で信長と対峙すこととなります。これが「長篠の戦い」です。そして、信長が当時の新兵器、鉄砲を駆使して勝頼に勝利しました。

さて、ここでやっと田峯城が登場します。田峯城の菅沼氏はこの戦いの5年前に徳川方から武田方に寝返っていたので、この戦いでは武田方で戦っていました。敗北した武田軍は散り散りに海岸線とは反対の山間部へ逃れました。その先には、武田軍が進攻の前哨基地として保有している城郭群と、補給路が無傷で残っていました。このとき、武田の大将、勝頼は田峯城の菅沼氏と行動を共にし、田峯城に向かいました。そうしてみると、菅沼氏は勝頼に大いに信頼されていたのでしょう。

ところがここでとんでもないことが起きてしまいます。城に残って守りを固めていたグループは、心の内では徳川方への帰参を希望していて、勝頼と菅沼軍を城に入れなかったのです。彼らは別の城に入り、その後、勝頼は無事諏訪へ逃げ帰っています。

田峯城と菅沼氏は、とんだ内紛で歴史上名を残すことになってしまったのでした。田峯城ではその後、さらなる内紛と惨劇を繰り返しますが、日本史の大きな軸で見れば小さなことでしかありませんでした。そののち武田氏は滅び、田峯城はいつのころか菅沼氏の城でもなくなり、やがて廃城となったのでした。




2020年12月10日

金剛輪寺:庭園にはり出した異形の茶室がある寺院

 金剛輪寺:庭園にはみ出した異形の茶室がある寺院



今回は、滋賀県愛知郡愛荘町にある金剛輪寺を訪ねました。

金剛輪寺は「湖東三山」の1つとして有名です。まず、「湖東三山」について確認しておきます。


 龍応山西明寺 (りゅうおうざん・さいみょうじ)

 松峯山金剛輪寺 (しょうほうざん・こんごうりんじ)

 釈迦山百済寺 (しゃかさん・ひゃくさいじ)


湖東三山は室町時代(約5~600年前)、敏満寺、大覚寺と合わせて湖東五山と呼ばれていたのが、のちに2寺が衰退し、3つの寺が生き残ったので湖東三山という名称が定着したという解説がありました。しかしどうやら、1965年ころの国内観光ブームのころ、この地方のバス会社が主要な3つの寺院を湖東三山と名付けたのが始まりのようです。


松峯山金剛輪寺

創建は約1300年前で、全盛期の規模についての記述は見つけられませんでした。金剛輪寺は密教寺院で、山奥にこもって独自の信仰に傾倒する場所なので、他の2寺と比べると寺域は狭かったのではないかと思います。しかし現在の状態で比較すると、本堂は入口から500メートル近く奥まった位置にあり、現在ではその広さは一番大きいように思います。




入口からしばらくは平坦な石畳が続きますが、100メートルも進むと石段の参道になり、いつまでたっても本堂らしきものは見当たりません。脚力が心配な人には本堂の近くまで自動車で登れるようになっています。

やっとのことでたどり着いた本堂は約730年前に建設されたもので、国宝です。三重塔は約650年前のもので、大きく破損していたものを50年前に補修しており重要文化財です。本堂の中に安置されている仏像は撮影禁止ですが、参拝者は近くまで行って見学させてもらえます。間近で仏像を見る機会はそうそうないので感動します。本堂の中には案内人がいて分かりやすく歴史や見どころを教えてもらえます。




金剛輪寺本堂 (解説より)

内陣須弥壇金具に弘安11年(1288)の銘があり、この時期に完成したと推測されている。鎌倉時代にめざましく発展した密教寺院の大規模な本堂である。桁行七間、梁間七間、入母屋造りで、妻飾りは「いのこさす」を組み、内外に長押を廻し、正面には蔀戸を入れるなど、全体は伝統的な和様建築である。内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の「拳鼻(こぶしばな)」がついている。密教本堂の内部は通常、外陣と内陣に区別されているが、この本堂もその通例に倣っている。外陣は、大虹梁(こうりょう)を受ける太い列柱と、格子戸、菱欄間の内外陣境結界とで構成される広い礼拝空間となっている。内陣は、天井を化粧天井とし荘厳な須弥壇を構える。流麗な曲線の檜皮葺大屋根に包含され、堂々たる偉容は近江中世本堂の圧巻ということができる。


僧坊「明寿院」

金剛輪寺と言えば、国宝の本堂と、重要文化財の三重塔がとても有名です。この寺を訪れるのであれば、それを外すわけにはいけませんが、僧坊「明寿院」の庭園も負けず劣らず見ごたえがあります。




この僧坊と庭園は、平坦な参道が折れ曲がる比較的入口から近い位置にあります。あまり宣伝されていないのは、1977年に焼失、再建された新しい建物だからでしょう。僧坊は縁側までは入ることはできますが、さらに内部に入ることはできません。

庭園は3つのエリアに分かれていて、入口に近い方は桃山時代の作庭、中央部は江戸時代初期、最深部は江戸時代末期の作庭と説明されています。




中央部の江戸時代初期の庭だと説明されているところに、茶室があります。庭と一体化していて、この茶室のための庭というより、庭に趣を添えるために追加されたのではないかと思ってしまいます。この茶室「水雲閣」は、天保年代(1830-44)に建立されたものです。茶室に合わせて作庭されたのではないかと思えるレイアウトなのですが、最深部の作庭時に修景されたのでしょう。


施設の概要

松峯山金剛輪寺

拝観料 600円
拝観時間 8:30~17:00





今回は、滋賀県愛知郡愛荘町にある金剛輪寺を訪ねました。金剛輪寺は「湖東三山」の1つとして有名です。



まず、「湖東三山」について確認しておきます。

龍応山西明寺 (りゅうおうざん・さいみょうじ)
松峯山金剛輪寺 (しょうほうざん・こんごうりんじ)
釈迦山百済寺 (しゃかさん・ひゃくさいじ)

ある解説によれば、「湖東三山」は室町時代(約5~600年前)、もう2寺、敏満寺、大覚寺と合わせて湖東五山と呼ばれていたのが、のちに2寺が衰退し、3つの寺が生き残ったので湖東三山という名称が定着したという解説がどこかでもらった資料に書かれていました。しかし、そういうことが書かれた資料は一つだけで、「湖東三山」、「湖東五山」という名称が本当に古くからあったのか疑問を持ちました。どうやら、1965年ころの国内観光ブームで、この地方のバス会社が、主要な観光地の3つの寺院を湖東三山と名付けたのが、この名称の始まりのようです。


松峯山金剛輪寺

創建は約1300年前で、全盛期の規模についての記述は見つけられませんでした。金剛輪寺は密教寺院で、山奥にこもって独自の信仰に傾倒する場所なので、他の2寺と比べると規模は小さかったのではと思います。しかし、現在の状態で比較すると、本堂は入口から500メートルも奥まった位置にあり、寺領の広さは一番大きいように思います。

入口からしばらくは平坦な石畳が続きますが、100メートルも進むとかなり急こう配の石段の参道になり、いつまでたっても本堂らしきものは見当たりません。いつたどり着けるのか不安になります。それを見越してか、脚力が心配な人には本堂の近くまで自動車で登れるようになっています。

やっとのことでたどり着いた本堂は約730年前に建設されたもので、国宝です。三重塔は約650年前のものですが、大きく破損していたものを50年前に補修しており、重要文化財です。

本堂の中に安置されている仏像は撮影禁止ですが、参拝者は近くまで行って見学させてもらえます。間近で仏像を見る機会はそうそうないので感動します。本堂の中には案内人がいて、この建物や仏像の歴史や見どころを分かりやすく教えてもらえます。


金剛輪寺本堂 (解説より)

内陣須弥壇金具に弘安11年(1288)の銘があり、この時期に完成したと推測されています。鎌倉時代にめざましく発展した密教寺院の大規模な本堂です。桁行七間、梁間七間、入母屋造りで、妻飾りは「いのこさす」を組み、内外に長押を廻し、正面には蔀戸を入れるなど、全体は伝統的な和様建築です。

内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の「拳鼻(こぶしばな)」がついています。密教本堂の内部は通常、外陣と内陣に区別されていますが、この本堂もその通例に倣っています。外陣は、大虹梁(こうりょう)を受ける太い列柱と、格子戸、菱欄間の内外陣境結界とで構成される広い礼拝空間となっています。内陣は、天井を化粧天井とし荘厳な須弥壇を構えています。ともに流麗な曲線の檜皮葺大屋根に包含され、堂々たる偉容は近江中世本堂の圧巻ということができます。


僧坊「明寿院」

僧坊「明寿院」は、平坦な参道が折れ曲がる位置にあります。あまり宣伝されていないのは、1977年に焼失、再建された新しい建物だからです。縁側までは登れますが、内部に入ることはできません。

湖東三山の3寺院の僧坊はそれぞれ趣のある庭園を伴っていますが、この「明寿院庭園」はそれだけを目当てに訪問してもいいと思える素晴らしさです。庭園は3つのエリアに分かれていて、入口に近い方は桃山時代の作庭、中央部は江戸時代初期、最深部は江戸時代末期の作庭と説明されています。




中央部の江戸時代初期の庭だと説明されているところに、茶室があります。庭と一体化していて、この茶室のための庭というより、庭に趣を添えるためにつくったのではないかと思ってしまいます。茶室「水雲閣」は、天保年代(1830-44)に建立されたものです。歴史的に見れば、茶室は最終段階で追加されたものということになりますから、江戸時代末期の最深部の作庭時に茶室周りも修景されたのでしょう。



拝観料 600円
拝観時間 8:30~17:00