2024年3月20日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その1

 江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その1



最近読んだ本に、「江戸時代の日本列島の沿岸航路には、数千隻の千石船が行き交っていた」という記述がありました。また、別の本には、「江戸時代の主要な千石船の航路」という地図が載っていて、その航路は、北は北海道、南は九州までぐるっと日本を一周していました。江戸時代にタイムスリップすることは不可能ですが、もしそれができたとしたら、私たちは日本一周を達成できるのでしょうか。この疑問が本当に実現できるのかを検証してみたいと思います。たらればという要素をふんだんに含むことになりますが、日本一周を目指した旅に出発したいと思います。

江戸時代後期になると、日本中を廻船(商品を運搬する千石船)が行き交っていたのは事実です。廻船は主に生産地から、集積地である大坂と、最大の消費地である江戸を目指して頻繁に航行していました。地図にあるように、廻船の航路は、日本列島を覆っていましたから、理論上は日本一周が可能ではないかと思われます。

まずは出発地点の選定ですが、廻船が最も集中した江戸を出発地点に選びたいと思います。ですが、本当に江戸を出発した旅人が、日本を一周して江戸に再び戻ってくることが可能なのでしょうか。また、江戸から北上して日本を一周するべきなのか、南下していうべきなのかも重大な問題です。

移動していくなかで、どういう問題にぶつかるかまでは現時点で想像できません。したがって、細かい検討は移動した先で行いたいと思います。何度も繰り返してしまいますが、運と資金とを100パーセント持っていたとしても、本当に江戸時代後期に日本一周が可能なのでしょうか。


江戸時代後期の江戸という都市は、世界で最初に居住者が100万人を超えた都市でした。
その住人の生活を支えたのは、海運による物資の供給でした。具体的には、生産地から集められた食料品などが、最大の集積地である大坂に集められ、そこから、最大の消費地である江戸に運ばれました。大坂から江戸に到達した千石船は、江戸で荷物を積み込んでまた大阪に戻りました。

一部は、江戸の北方、例えば仙台藩の領地から、江戸へ直接運ばれる物資もありました。しかし、北への廻船は、南の大坂と比べると格段に少なかったと思われます。また、仙台まで行きついたとしても、その先、北海道方面へ進む廻船がどの程度あるのか今のところはっきりした情報がつかめていません。

どちらも危ない道ということに違いはないのですが、我々は南の大坂に向かいたいと思います。

大坂で集積された物資を江戸に運ぶのは、「菱垣廻船」や「樽廻船」と呼ばれた大規模な廻船問屋の千石船が主体でした。ところが、江戸末期になると、「尾州廻船」という新興勢力が力をつけてきます。どの船を選ぶかはもう少し検討することとしたいと思います。

江戸の浅草に幕府の米蔵があったので、主に大坂から運ばれた米は、日本橋辺りで陸揚げされ、浅草に運ばれました。大坂に戻る便も、このあたりから出発するわけですから、この辺りを拠点に出発する千石船を探そうと思います。

この時代、一般庶民が海路で旅行するということはありませんでした。千石船の乗組員は約15名、航行技術も確立されていませんでしたから、命をかけての航行でした。何の役にも立たない旅行者を乗せるなどということはあまり考えられないことでした。

支配階級の武士が何らかの理由で乗船することはあったかと思います。ただ、この場合も、自国のチャーター便に乗船するという形であったと思われます。

今回は、金を積んで乗船を許されたということにしましょう。

また、新興勢力の「尾州廻船」は、既得権でがんじがらめの江戸には入れず、その手前の浦賀という港へ寄港していました。大坂方面でも、中心地である大坂の港には入れず、その近くの兵庫の港へ寄港していました。そういうこともあって、我々は運よく「樽廻船」の大坂へ戻る船に乗船できたということにしましょう。

江戸から大阪まで、スピード競争のレースでは6日間ぐらいでの航行もあったようですが、通常は12日間程度だったようです。江戸後期になるともはや沿岸沿いを航行するのではなく、外洋を航行しました。帆船ですから、風頼みで、逆風になれば出発地点まで押し戻されるということもあったようですが、今回はうまくいったことにしましょう。きっと荒波にもまれてさぞやひどい船酔いに苦しんだことでしょう。

江戸を出て、浦賀で必要な補給を行い、伊豆半島の下田沖の太平洋を紀伊半島まで航行します。陸地がまったく見えないという航海です。紀伊半島に近づいても、逆風で航行不能にならない限り入港はせず、沖合に停泊してそのまま航海を続けたようです。紀伊半島を越えて、大阪湾に入り、そのまま大坂の港に入港したと思われます。

このあたり、古い記録も少なかったでしょうし、残された記録の解析とその情報公開も進んでいるわけではありません。たぶん間違いないと思われる情報は、今述べたようなことです。

というわけで我々は江戸を出発し、12日後には大坂に到着しました。

これが陸路だとどのくらいを想定することになるのでしょうか。当時の徒歩による移動は、1日40キロメートルで、江戸から京都まで13日かかったようです。これは、江戸から京都までつながっている「東海道」という最も整備されている街道が存在したからです。ただ、途中に大きな河川があり、雨などで川留めされることがあり、移動日数の予定は立てづらかったようです。また、京都から大坂は、川船で約1日、船での移動か特別早いというわけではなかったようです。

江戸を出発して12日後、大坂の地に上陸を果たしましたが、この先はどうなるのでしょうか。日本一周と銘打ったからには、瀬戸内海の最短ルートを取るのではなく、四国方面から九州の南を目指さねばなりません。

そういうルートを発見できるかは、次回のお楽しみということにしたいと思います。⛴



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