2020年9月29日

妙立寺(忍者寺):寺院の内部は巨大迷路

 妙立寺(忍者寺):寺院の内部は巨大迷路

本堂の入口

「正久山妙立寺」は、金沢市内にある日蓮宗の寺院です。

この寺はとても有名ですが、この寺が有名なのは国宝の仏像が安置されているとかではなく、忍者屋敷のような数々の仕掛けが施されているからです。内部は、29の階段と23もあるという細切れの小部屋で構成されています。アンダーグラウンドの世界に巣くう忍者の巣窟があるのであればこんな建物だったろうと思います。


ポストカードより

見学するには事前に予約が必要です。

そして、寺の中へ入ったら案内人の指示に従って移動し、自由行動することは許されません。とはいえ、案内人なしでは細かい細工に気づかずに通り過ぎてしまい、その醍醐味を味わうことはできないでしょう。

朝早い回のグループに参加したのですが、それでも20人くらいの参加者がいました。本堂の中心部に待機して、歴史的な説明を受けたのち、案内人に従って寺の中を移動します。

本堂の広間での説明の後、裏の通路、地下の隠し部屋へと移動します。外観はいわゆる寺院、しいて言えば併設した庫裏が見えるくらいですが、内部は地下から四階まで重層に積み上がった複雑な構造をしています。武者隠しのような部屋だけでなく、姿を見せずに法要に参加するための部屋とか、茶室のような部屋とか、御座所風の部屋とか珍しい部屋が多数あります。


側面の外観


この寺の細工はいかにも忍者屋敷風ですが、伊賀や甲賀で見た忍者屋敷とは違っている部分もあります。そう思えるのは誰か位が高い人物を他から隠し、その人のための秘密の部屋を用意することに細工の主眼が置かれているように見えるからだと思います。

ですから、「前田家が幕府軍の進攻があった場合、藩主を隠すための秘密基地だった」という話が出てくるのだと思います。荒唐無稽な話だと思うのですが、歴史的な背景をもう少し探ってみました。


この寺がある場所は、金沢城の南、犀川の南岸です。この場所には妙立寺だけでなく、多くの寺院が集められました。

寺院は有事の際に、広い敷地や施設を提供できるので、金沢だけでなく多くの城下町で一つの場所に集められています。ですから、軍事目的で積極的に活用しようという考え方もまんざら否定できません。

また、徳川幕府が外様大名だった前田家を取り潰したがっていた可能性も否定できません。前田家が取り潰されるのを極端に恐れていたのも本当のことのようです。ですが、秘密基地まで用意してしまうと逆効果のように思います。


この寺を軍事基地に転用することを本当に考えていたとすると、大人数の攻撃に対する防御がもっとなされるべきだとおもいます。落とし穴や、細工された小部屋や、たくさんの階段では少人数の襲撃には効果があるかもしれませんが戦争が起こった場合では不十分でしょう。それに、この寺は数十人の部下に守らせるくらいの広さしかありません。


パンフレットより:藩主の居間


さらに、この本堂の背面はすぐに隣の寺の敷地になっていて、寺と寺を分ける小道がすぐ脇をかすめているのも気になります。

藩主がくつろぐ部屋だと説明された部屋は、その小道から丸見えで、そんなところに藩主が潜んでいたら危険極まりない感じです。

そういうことを勘案すると、もう少し別の目的でつくられた空間だと思います。ただ、こんな寺院は見たことがありません。歴史的な説明は無理があるように感じますが、寺院の内部は見学する価値があると思います。


施設の情報

正久山妙立寺

拝観料 1000円(大人・中学生以上1人):700円(小学生以上1人)
拝観時間 9:00~16:00(平日)、9:00~16:30(土日祝) 要予約
休み 1月1日 及び 法要日




2020年9月18日

金沢城:本丸が立入禁止だった巨大な城

 金沢城:本丸が立入禁止だった巨大な城

再建された橋爪門(五十間長屋の一部)

「金沢城」は、石川県金沢市にある城址公園です。この城は、豊臣政権期から江戸時代を通して前田氏の居城でした。

訪れたとき、この城の中心部であるはずの本丸は閉鎖され立ち入り禁止でした。その理由は「この付近でイノシシが目撃されたので、安全のため立ち入りを禁止する」とのことでした。この城は、城の中心である本丸にたどりつけない唯一の城かもしれません。


再建された「五十間長屋」

この公園の中心は「五十間長屋」という再建された建物です。そして、この建物がこの公園の中心的な存在と言っていいでしょう。この建物は、二ノ丸御殿の東正面を守る櫓、長屋、門が複合した巨大な建築物でした。

そしてこの建物に守られた背面には、広大な二ノ丸曲輪があり、そのほとんどを占める広大な二ノ丸御殿があったのですが、現在は広い空き地でしかありません。


二ノ丸内部の空地

五十間長屋の奥はどうなっていたのでしょうか。

二ノ丸の広大な空地の先には「玉泉院丸庭園」という美しく整備された場所があります。綺麗に整備されているので城の主要なな建物があった場所なのかと考えてしまいましたが、元々は城の外周部でした。城内に閉じ込められるのを嫌った歴代城主の1人が、1630年ごろ「金谷御殿」という別荘をつくった場所なのです。


玉泉院丸庭園

現在のこの公園と城の境界ラインはあまりはっきりしていないので、元々どんな感じだったのか想像しづらくなっています。江戸時代にはこの辺りは切り立った崖になっていて、防衛のための建造物もそれほどなかったのだと思います。

二ノ丸の背面の崖地を登ると、現在はただの空き地ですが、かつては「本丸付段」と呼ばれる本丸を防衛するための場所があります。この城は、丘の一番高いところを本丸、それを守る本丸付段、その次に二ノ丸、その手前にさらにいくつかの曲輪というレイアウトでした。

この様な、何重にも防衛された城の中心部の本丸は、逆を言えば奥まっていて不便で、十分な広さがなく、平和な江戸時代にはあまり活用されなくなっていました。広大な二ノ丸にすき間なく二ノ丸御殿がつくられ、そこが江戸時代を通して城の中心部となりました。本丸の建物は江戸時代の初めに火災で焼失してしまい、幕府の顔色をうかがって天守の再建も行わなかったため、ほとんど利用されない場所になっていたようです。

本丸付段には「三十間長屋」という櫓(1853)が現存しています。


三十間長屋

それでは、二ノ丸の手前側はどうなっていたのでしょうか。

二ノ丸の手前には「鶴ノ丸」と呼ばれる場所があり、現在は休憩所があります。遺構としては「鶴丸倉庫」(1848)があります。立地的には、西側の丘の上にある本丸の足元の空間で、小規模な独立した曲輪だったのでしょう。

その手前の三ノ丸には、重要文化財「石川門」(1788)と、再建された「河北門」があります。河北門の先の広大なエリアの先に「大手門口」があります。石川門の先は現在は広い道を挟んで「兼六園」に通じています。


石川門

この城は、平地の中に独立した台地状の部分を城域とした「平山城」です。城に周囲はかつては堀に囲まれていましたが、多くは埋め立てられています。城域を囲む広い道は、かつては広い堀だったのですが、その痕跡は残っていません。外堀の一部分(いもり堀)が再現されています。

周辺地域は町の中心部分にもかかわらず、歴史的な建造物が比較的多く残っています。金沢城の歴史についてもう少し書いてみました。ここをクリックして見てください。


施設の情報

金沢城公園

金沢城「五十間長屋」のみ有料
開館時間 9:00~16:30
入館料 310円(大人1人):100円(小人1人)
年中無休



2020年9月15日

妙心寺:京都の中心に広大な寺域を有する寺院

妙心寺:京都の中心に広大な寺域を有する寺院

仏殿と法堂
妙心寺」は京都市右京区花園にある臨済宗の寺院です。

1335年に花園天皇が創建を提案しますが、実際に創建されたのは1342年のようです。しかし、そのあたりはっきりしていないというのが正直なところなのではないでしょうか。

場所について言えば、前回紹介した天龍寺と比較的近い位置にあるという印象です。JR線の嵯峨嵐山駅から各駅停車で京都駅の方向に向かう列車で2駅目の花園駅で下車します。その後、駅の北側の大通りを少し東方向に向かい、三差路を北上するとしばらくして妙心寺の南正面に到着します。


寺院の南側入口
妙心寺の特徴としては、京都市の西北にあたる場所で、広い敷地を有していることが上げられると思います。

北門を出ると嵐電北野線の駅までそれほどかかりません。

この私鉄からは、仁和寺、龍安寺などの有名な寺院を目指すことができますし、北に向かえば足利将軍ゆかりの等持寺があります。


広大な寺院の内部は

さて、妙心寺の話にもどります。

妙心寺の法堂の天井には龍が住んでいます。もちろん「住んでいる」というのはたとえで、江戸時代の画家・狩野探幽が描いたものです。


龍の天井画・妙心寺のパンフレットより

南側から、勅使門、三門、仏殿、法堂、大方丈という巨大な建築物が一直線に並ぶ様は迫力があります。この寺院の魅力はそれだけではありません。

本当の魅力はその周辺を取り巻く多数の塔頭寺院だと思います。その数は46もあるそうです。塔頭寺院のほとんども一般には非公開で、信者になるか、修行を申し込まない限りその先に進むことができないのが残念なところです。

妙心寺の内部は、狭い路地が縦横に走っています。その両側に並ぶ塔頭寺院の内部は、塀で囲われていてどうなっているのか分かりませんが、どの寺院も門まわりの美しく飾られた前庭が印象的です。

いくつかの塔頭寺院は一般観光客に内部を公開しているようです。


塔頭寺院の入口付近
妙心寺の歴史はかなり複雑な経緯をへているようです。この話の続きをもっと詳しく知りたい方は、ここをクリックして見てください。


施設の情報

妙心寺

参拝時間 9:10~16:40(受付終了)
拝観・説明料 700円(大人1人):400円(小中学生1人)
無休





2020年9月13日

天龍寺:創建の陰に後醍醐天皇と足利尊氏の対立

 天龍寺:創建の陰に後醍醐天皇と足利尊氏の対立

方丈

天龍寺は京都市右京区嵯峨にある臨済宗の寺院です。

1339年に足利尊氏が創建した由緒ある寺です。

大阪方面からは、阪急京都線で阪急嵐山駅まで行き、徒歩で渡月橋を渡って天龍寺へ向かうのが便利です。駅から北へ向かう道筋はきれいに整備されていて、公園からは桂川と渡月橋の美しい景色が堪能できます。


渡月橋
天龍寺の建物は特徴的な外観をしています。これは禅宗寺院に共通する特徴ではないかと推測します。(他の場所の禅宗寺院でも同じような外観の建物をよく見ますから。)

観光客の受付は、庫裏の切妻(台所や僧侶の住まいがある場所)の壁側にあります。その広い壁面をすべて塗り壁にして、均整の取れた割り付けの柱と梁をわざと見せて、印象的なデザインアクセントにしています。


庫裏
室町時代創建という歴史に比較すると、建物の築年数は比較的短く、方丈、庫裏、法堂は約120年、書院は約100年です。

建物以外の特徴で注目したいのは、仏像が前面に出てきていないことです。少なくとも見学コース内に仏像は見当たりません。禅宗寺院と言うと、僧侶が修業に励むというイメージが強いと思います。たとえば、修行僧は庭を眺めながら座禅を組むとかです。


方丈の裏庭
仏像の代わりに達磨大師の掛け軸があったりしますが、禅宗庭園にも重要な意味が込められていると思います。どういう意味か読み解くだけの知識はありませんが、庭の石組には深い意味が存在するようです。方丈裏手の庭は「夢窓疎石」の作庭によるものといわれ、強い精神性を感じます。

(景色としても大変美しいので、それだけでもいいように思いますが。)


創建に至る歴史

さて、表題に上げた後醍醐天皇と足利尊氏の対立と、天龍寺の創建の関係について簡単にまとめてみます。

足利尊氏が興した室町幕府はその成立時点では、後醍醐天皇の勢力と対立状態にありました。その後、後醍醐天皇の南朝勢力は衰退し、北朝と室町幕府は繁栄を続けます。その対立勢力の中心人物の後醍醐天皇が急死します。室町幕府は巨大な寺院を建ててその魂を弔おうとしました。


後醍醐天皇像

これは、当時の日本では超自然的な力(たとえば、不幸にして死んだ権力者の恨み)が人々の生活に影響するという考えが大きく影響していました。室町幕府は、後醍醐天皇の魂を弔うことで繁栄を祈願したのでしょう。

もう一つは、国家事業としての寺院の建立ということがあると思います。

この話の続きをもっと詳しく知りたい方は、ここをクリックして見てください。

天龍寺は、この寺院は誕生してから8度も火災で焼失しています。それは失火による火災もあれば、有名な「応仁の乱」の戦火による焼失もありました。明治維新に至る少し前に京都を戦火に巻き込んだ「禁門の変」による火災でも建物の多くを失いました。

歴史の積み重ねの中で、何度も不死鳥のようによみがえり、現在の天龍寺があるのだと思います。

天龍寺は、「世界遺産・古都京都の文化財」にリストアップされています。


施設の情報

天龍寺

参拝時間 8:30~17:30
参拝料 庭園のみ:500円(大人1人)、庭園+諸堂:800円(大人1人)
行事等により参拝休止日あり





田峯城:武士の館を山頂に再現してしまったユニークな山城 

田峯城:武士の館を山頂に再現してしまったユニークな山城



「歴史の里 田峯(だみね)城」は、戦国時代の山城・田峯城があった場所に建てられた(言ってしまえば)博物館です。荒廃した山城を1994年に町が整備して、武士の館(博物館)を建設したのです。この館はこの山城に元々あった建物とはまったく違っていて、戦国時代末期の有名な大工の指南書に書かれていた有名な建物にそっくりでした。

戦国時代の山城という場所と、この武士の館はミスマッチなはずなのに、なぜかしっくりおさまっているのです。その理由は、歴史的には変なのですが、この館が本物のクオリティを持った建物に仕上がっているからだと思います。もっと有名になってもいい観光スポットだと思います。

この場所は、実際に山城があった場所ですから、歴史的な物語が潜んでいます。その歴史の話、このミスマッチな武士の館の話などをまとめてみました。




田峯城の現在の姿

この「歴史の里 田峯城」は、愛知県設楽(したら)町にあります。この城がある設楽町は、有名な戦国大名の武田氏の拠点があった諏訪から、京都へ向かうルート上にあります。武田氏といえば、信玄が有名ですが、その息子・勝頼も京都を目指し、行く手に支配地を持つ織田信長・徳川家康連合軍と交戦しました。これが有名な「長篠の戦」ですが、田峯城もこの戦いに登場します。ただ、とてもマイナーな登場の仕方でしたから、よほど歴史に興味がある方でないと、気づかないかもしれません。

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「匠明」に書かれた武士の館

今度は、武士の館にまつわる情報に触れたいと思います。この建物の設計図が書かれていた「匠明(しょうめい)」というのは、戦国末期に活躍した大工集団の棟梁の秘伝書でした。その「匠明」に書かれている武士の館の平面図は、施主のどんな要求にも応用できる万能平面図でした。

さて、田峯城の本丸にある資料館は、その「匠明」の武士の館がそっくりそのまま再現されているので、実に美しい建物になっています。しかし一方で強い違和感を感ぜざるをえません。山城の本丸にそんな平面図を持った館が存在するわけがないからです。

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山城としての価値

最近はお城ブームで、山城も注目されていると思います。山城の多くは整備が不十分で、十分注意してから目指さないと危険な目に合うこともありそうです。その意味では、十分整備されたこの田峯城は、アプローチが容易です。

この城は切り立った山を削って平地をつくり、いくつかの平地を束ねて城域としています。盆地側はそれほど切り立っていないので、土塁と、空堀で囲み、その上に柵を設けて敵の侵入を防いだのでしょう。

城の反対面の急な坂の下には山沿いに作手街道があり、それを見下ろす位置にこの城はあります。街道を移動する敵なら上空から圧倒的優位に攻撃できるのでしょう。ただし見学する上では、この方面は急な崖になっていて、山城探検に慣れていないと危険な感じです。

前半部分で、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いのマイナーな部分に田峯城が登場すると書きました。その話に興味がありましたらここをクリックしてください。


施設の情報

歴史の里 田峯城

入城料 大人:220円、子供(小・中学生):110円

休城日 毎週月曜日・祝日の翌日・年末年始(12/29~1/3)



2020年9月6日

諏訪家屋敷:茅葺き屋根がまぶしい大庄屋の住まい

 諏訪家屋敷:茅葺き屋根がまぶしい大庄屋の住まい


諏訪家屋敷は、滋賀県守山市に現存する江戸時代に建てられたの庄屋の屋敷です。この屋敷は、武士を出迎える目的でつくられた書院を併設した大規模なものです。屋敷の奥には広い日本庭園や、茶室まであり、さらに、庭の脇まで水路がつながっていて、収穫したした米を敷地内にある倉に運び込むための水門もありました。全国を探しても、これほど大規模な農家住宅はもはやほとんど現存していないと思います。


全体図

この屋敷は、大きな寺院の裏手に位置しています。広大な敷地がそのまま残っていますが、現存する建物は母屋、書院、茶室、倉などです。道路側に広い駐車スペースがあり、その正面に茅葺きの屋根を葺き直したばかりの母屋が見えます。

道路から少し入ったところにある表門から十数メートル歩くと右手に大きな玄関があり、その奥が書院になっています。ここは支配者層の役人をもてなす空間のようです。この玄関は、特別な時にだけ使われたようです。

さらに奥に土間敷きの大空間の台所があります。その出入口が実質的な玄関だったようです。観光客の受付もここにあります。


この大空間の土間に置かれていた備品は取り払われて、展示スペースになっています。そして、土間の空間に面して小上がりがあり、奥に入っていけるようになっています。奥は畳敷きの部屋が続いています。

そのさらに先は、書院につながっていて、書院からは、日本庭園が眺められるようになっています。

庭園は回遊式になっていて池のまわりを散策できる仕掛けになっています。水路に面して水門があり、水路の水位が高いときには庭の中にまで船が入れる仕掛けになっています。さらに庭の一角に、どこかの寺から移築された茶室があります。


庭側の外観

全国を探せば、江戸時代の農家の屋敷で比較的大きなものも現存している例はあると思います。とはいえ、庭園や茶室まで持つ農家住宅は珍しいと思います。パンフレットによれば、この屋敷の住人の先祖は武士だったという言い伝えもあるようです。そういう話が出てくるのも、この屋敷が農家住宅らしからぬ贅沢な造りになっているからでしょう。


施設の情報

大庄屋諏訪家屋敷

休館日:火曜日、祝日の翌日、12月29日から1月3日まで
入場料:大人300円、小・中学生150円



2020年9月3日

慈恩禅寺:神秘的なブルーの池を囲む禅宗庭園

慈恩禅寺:神秘的なブルーの池を囲む禅宗庭園

禅宗庭園
「慈恩(じおん)禅寺」は、岐阜県郡上八幡市にある寺院です。この寺院は歴史的なエピソードも豊富ですが、最も気になるのは、他では見たことのない色をした池を囲む禅宗庭園です。

受付から書院へ案内され、そこからこの庭を眺めることができます。残念ながら庭へ下りて散策することはできません。

対面の急な山肌に細い滝が流れ落ち、祠や橋のようなもので美しい情景が創り出されています。岩肌を削るように庭がつくられているのも目を引きますが、最も驚かされるのは池の水面の色です。池の水が鉱物を含んでいるのでしょうか、薄いブルー色をしているのです。


池の水面
これだけの禅宗庭園ですが、いつごろつくられたといったような情報はありません。この寺院の本堂と書院は1896年再建で、築120数年しか経っていないことになります。これは、集中豪雨で裏山が崩れ、建物がすべて倒壊したためのようです。裏山というと庭の対面にある崖のことでしょうから、庭も全壊して修復された可能性が高いと思います。


この寺院を創建した遠藤慶隆とは

創建は1606年で、郡上八幡城主の遠藤慶隆(よしたか)が創建しました。江戸幕府が成立したのが1603年ですから、この寺院は江戸時代の初めにつくられたということになります。

慶隆が郡上八幡城の城主になった経緯はかなり複雑だったようです。

まず、遠藤一族は慶隆(1550-1632)が家督を継ぐずっと前から、郡上八幡を支配する豪族だったようです。豊臣秀吉が支配者だった頃、郡上八幡は稲葉貞道のものになり、慶隆は別の場所へ移封されてしまいます。

失地回復のチャンスがやってきたのは、関ケ原の戦いの前哨戦が始った時でした。稲葉貞道が西軍に属していたので、慶隆は東軍に属して郡上八幡城を攻めます。ところが、城を攻め落とす前に稲葉が東軍に寝返り、攻略の大義がなくなってしまいます。

それでも、関ケ原の戦いの後、慶隆は東美濃の平定に尽力した功績で、別の領地へ移動する稲葉貞道の跡を継いで郡上八幡城主となりました。

慈恩禅寺が創建された1606年には、息子の慶勝が、従五位下の官位を受けています。その慶事を受け、この寺を創建したのではないでしょうか。

ところが、この慶勝は「大坂の陣」のあった1615年、京都で病死してしまいます。息子に跡を継いでもらいたかったのでしょうが、その願いはかないませんでした。境内に慶勝の霊廟が建立されています。


施設の情報

慈恩禅寺

拝観料 大人500円
拝観時間 午前9時~午後5時(12月~2月は午後4時30分)



2020年9月1日

吉備津神社:奇景・400メートル続く廻廊

吉備津神社:奇景・400メートル続く廻廊

廻廊

「吉備津(きびつ)神社」は、岡山県岡山市にある神社です。その起源は古く、「日本書紀」が書かれたころまで遡るようです。問題の廻廊は本殿の奥にありますので、参拝の順に説明を進めます。

入口からすぐに急な階段になっていて、その両側が無数の提灯で囲われています。上りきったところは拝殿になっていてその奥が本殿です。

本殿は正面が狭いのですが、向かって左手が広場になっていて、そこから側面を見ることができます。この側面の外観は、巨大な千鳥破風を2つ並べた屋根が組み合わさったいて、この造りは他では見たことがありません。


本殿

足元も漆喰で覆われていて、これは形状から「亀腹(かめばら)」と言うそうです。これらが本殿の特異な印象を強めます。内部も、中央に行くにしたがって床と天井が高くなるという珍しいレイアウトになっているそうですが、参拝しただけでは分かりません。この本殿と拝殿は、1425年に建てられたもので、国宝です。

本殿の右手から奥に進むと廻廊に入ります。廻廊は、なだらかな傾斜を下りながら、延々400メートル一直線に伸びています。これは途中いくつかある社(やしろ)へ向か時、雨にぬれずに参拝ができるようにつくったのでしょうか?1580年ごろ造営されたもので、県指定重要文化財です。


御釜殿の内部

廻廊を下っていくと、途中に「御釡殿(おかまでん)」という建物があります。この建物の中では、驚いたことに、着物姿の神職がご飯を炊いています。ご飯を炊くのが神事で、占いに関係があるとのことです。なんでも、朝廷が遣わした将軍が異国の鬼神を退治したところ、その将軍の夢枕に鬼神が現れ、このご飯を炊いての占いを行うことを要求したようです。

この話は、昔のことでそういう伝説的な表現になっていますが、百済から連れてきた皇子をこの地に幽閉していたことに関係があるのだと思います。たぶんその皇子が反乱を起こしたため成敗してしまったのでしょう。そう書かれた資料を見つけたわけではありませんが、鬼神とは幽閉された皇子ではないかと思います。

将軍が鎮圧した皇子の呪いを緩和する目的でこの神社がつくられたのでしょう(創建理由は少し変えて後世に伝えられたようですが)

そこまでしたのに呪いと思われる現象は消えなかったので、それを静めるための行事がさらに行われることになったというのがこの神事の起こりということです。これが鳴釜(なるかま)神事と言われるものです。今ある御釡殿は1606年に建てられたもので、重要文化財です。


施設の情報

吉備津神社

入場料:無料
年中無休