2020年10月20日

臨春閣:池に持ち出して佇む武士の邸宅

臨春閣:池に持ち出して佇む武士の邸宅 




臨春閣がある「三渓園」は神奈川県横浜市にある風景式庭園で、この庭園は、明治時代の実業家、原三渓がつくりあげたものです。その広大な敷地には17棟の歴史的建造物が、風景と調和する形で移築されています。

その中で、もっとも有名な建物が「臨春閣」という数寄屋造りの武家屋敷で、池を中心に3棟の建物が雁行状に配置されています。

この建物は、元々は大阪にあって、大阪の豪商が所有していました。歴史的に価値のある建物の保全に熱心な原三渓が、その建物を購入しこの地に移築したのでした。それが元々は誰の手で造られたのかは明らかになっていません。

今のところ、紀州藩の別荘をもらい受けた武家から豪商の手に渡ったということになっています。この建物には、豊臣秀吉が伏見につくった御殿の一部分だったという逸話もあります。そういう話が出てくるのは、元の所有者が大阪の豪商だったとはいえ、個人の力でつくり上げるにはあまりにも優美な建物だからだと思います。




三渓園が明治時代につくられた時には、一般に公開する目的の「外苑」と、庭の所有者が家族で楽しむための「内苑」に分かれていました。

そして臨春閣は内苑側に移築されています。いやむしろ、この臨春閣を演出するために内苑が設計されたと言えるほど風景にマッチしています。

現在は外苑と内苑のどちらも一般に公開されていますが、内苑の建築物はプライベートで使用されることも多いようです。訪問した時も一部分はお茶会の会場となっていて見学できませんでした。




内苑の入口には京都から移築してきた「御門」という大きな門があります。入ってすぐの場所は、路地のような空間で、足元は敷石が敷かれています。右手に茶室の白雲邸を見ながら路地を進んでいくと、臨春閣の入口が見えます。

左手の小道を進むと、臨春閣の前面に広がる大きな池越しに建物全体を見渡せる広場があります。そこから望む臨春閣はまさに大名の住まいといっても言い過ぎではない優雅さです。

この建物を特に優雅に見せているのは、建物のギリギリ際まで全面の池が迫っていて、池の上にはり出したようにつくられている点ではないでしょうか。建物が庭と一体化しているのです。




多くの研究者が大阪にあったころの建物と横浜へ移築されてからの建物との違いを研究しています。その研究によると、雁行した3つの建物の順番が、移築に際して入れ替えられているそうです。

現在建っている建物は、大阪時代には一番奥にあった部分を中心に持っていき、右手前だった部分を最も奥の左側へ配置し直しています。その際に、奥へ移動させた第3屋は180度回転させて裏だったところを表にもっていき、中央部と奥の第3屋との接合部は付加されています。

この建物は表側の優雅な美しさに比べて、裏側は実はそれほどでもありません。この建物と裏山との間は狭い路地になっていまが、この路地は、一番奥の第3屋と中央部分の第2屋の繋ぎ目のあたりまでは入っていけます。裏側から見ると臨春閣は普通の民家のようで、外壁は置き石の上にのっかっているだけです。こちら側を見る限り、武家屋敷だったという説は疑いたくなります。

この三渓園は臨春閣にだけ注目するのではなく、他の建物にも注目すべきです。広大な敷地にたった17棟の建物が景観にマッチして佇んでいます。その光景は何とも言えず心に感動を覚えます。


施設の概要

臨春閣

開場時間 9:00~17:00
三渓園への入場料 700円(大人1人):200円(小・中学生1人)
休み 年末(12/29~31)

 


2020年10月9日

松本城:黒い天守が水面に輝く城

 松本城:黒い天守が水面に輝く城





松本城は、長野県松本市にあります。

この城は残念ながら城というエリアは維持しておらず、美しい天守とその周辺の本丸が存在しているに過ぎません。

天守のある本丸は、周囲を内堀が囲み、他から隔離された構成となっていました。かつてはその外側に、コの字型の二ノ丸が本丸の南側をカバーする形で取り囲み、その外側も内堀が他とのつながりを遮断していました。ここが城の中核部分で、「内曲輪」と呼ばれていたようです。

その外側に、この内曲輪すべてを取り囲む広大な三ノ丸が存在し、それを取り囲むように広い外堀が四周に存在していました。かつての内曲輪の範囲は広いところで約300メートル、狭いところで約200メートルの長方形でした。三ノ丸と呼ばれたエリアは、広いところで約600メートル、狭いところで約500メートル。これが本来の松本城で、広大な城域を有する平城だったわけです。




豊臣秀吉の時代、徳川家康の関東への移封にともなって石川数正が松本城主となり、天守の造営などの城の再整備が行われました。

この城は守りを重視した堅城というよりは、見せる城だったのではないでしょうか。そして遠くからでも目立つ巨大な天守を造って、豊臣時代の盤石さをアピールしようとしたのだと思います。


松本城の誕生時期

天守が造られたのは、石川数正の息子、石川康長の時(1592年ごろ)だということが、史料などから推測されています。再建された近世城郭建築(黒門、太鼓門など)の原型にあたる建造物はその時に造られたようです。

城の外堀の5か所に出入口「虎口」があります。1729年に描かれたと言われている古地図の「虎口」は武田流馬出しの形状をしています。そのことから、この城の元々の築城者は武田家の誰かではないかと想像されています。また、部分的な発掘調査からも、この基本レイアウトは武田家が支配していた時代(1550~75ごろ)のものだということが推測されるそうです。


松本城の美

黒い下見張りの外壁が戦国時代の物々しさを感じさせる一方で、天守、乾小天守、辰巳附櫓が三角形の美しいプロポーションを見せてくれます。




見学者は北側に設けられた通路に沿って本丸を半周して天守の入口に至ります。入口は天守と乾小天守の間に挟まれた位置にあり、乾小天守の中間階から天守へ移動し、天守の最上階まで登ってから中間階まで降りてきます。そこから辰巳附櫓へ移動し、月見櫓の下の別の出口から外に出ます。

天守と内堀との関係を観察するには、本丸の南側の松本城公園からがいいでしょう。ここは、内堀越しに天守を望む絶景スポットで、広々とした公園になっています。内堀の巾は天守の南正面で約60メートルとのことです。建設当時の鉄砲の射程距離を考慮して決められたようです。


その他の情報

松本市内は周囲を高い山で囲まれた盆地で、山に降った雨が湧水となって市内の至る所で自噴水が噴き出しています。市内各所にある自噴井戸は観光客向けの説明看板が整備され観光名所として整備されつつあります。この城の内堀の水源は、自噴する湧き水かもしれません。




本丸へは、1960年に再建された「黒門」から入ります。付属の門と合わせて「桝形」を形成しています。残念ながら中へ入ることはできません。

本丸御殿、二ノ丸御殿、古山地御殿の3つの御殿があったようです。本丸にあった御殿は1727年に火災で焼失して以来再建されず、それ以降は庭のような空間として使われていたようです。二ノ丸御殿の方は明治に入ってから焼失しています。古山地御殿は小規模なもので、明治に入って取り壊されたそうです。




二の丸の東側の出入り口に「太鼓門」が1999年に再建されています。この門も内部に入ることはできません。

参考文献:「図説国宝松本城」 中川 治雄/著 一草舎出版


施設の情報

松本城

開場時間 8:30~17:00(最終入場16:30)

入場料 700円(大人1人):300円(小・中学生1人)

休み 年末(12/29~31)


 

2020年10月5日

天寧寺:五百羅漢に三方向から睨まれる荘厳な空間

 天寧寺:五百羅漢に三方から睨まれる荘厳な空間



「天寧寺」は滋賀県彦根市にある曹洞宗の寺院です。

この寺院には有名な「五百羅漢堂」があります。

2017年公開の映画「関ケ原」の最初のシーンで、麦わら帽子の少年が、老人の話に聞き入っています。その少年は後に多くの歴史小説を著した司馬遼太郎のようです。次のシーンで、同じ場所で子供時代のの石田三成が豊臣秀吉に茶を差出す有名なエピソードが続きます。この2つの場面が展開する寺の内部は、壁面がすべて五百羅漢に埋め尽くされています。

この映画のロケに使われた印象的な五百羅漢の寺院はどこなのか。実は石田三成がいた佐和山城のすぐ近くにあるこの天寧寺だったのです。佐和山城と天寧寺の位置関係に強いつながりを感じたのですが、残念なことに、映画のシーンに使われたという以上のつながりはありませんでした。

この寺の建立は比較的新しく、1811年、五百羅漢堂の完成は1828年でした。この天寧寺は、彦根城下にあった「宗徳寺」がこの移転されたときに改名し現在の名前になりました。建立した藩主は11代、井伊直中(なおなか)で、井伊直弼の父親でした。



五百羅漢堂


この寺堂には本尊の仏像も正面に安置されていますが、周囲の壁すべてを占める五百体の羅漢は珍しいと思います。

三方向から強い視線を送ってくる五百羅漢とはどういう人達なのでしょうか。

五百羅漢という人達は、釈迦の死後、仏教をより発展させようと開かれた集会で、集会場となった洞窟に入った500人のことを指すようです。ですから羅漢というのは、釈迦の直弟子、宗教セクトの重要人物達ととらえればいいのではないでしょうか。

「禅宗」が勢いを増した「鎌倉時代」ごろに、中国から日本に「羅漢」を彫像として並べ、敬うという習慣が輸入されたようです。




実際に500体の「五百羅漢」を祭るのは、労力的にも、資金的にも大変なことだったと思います。この寺の五百羅漢は、1831年に5年の歳月を費やして京都の仏像彫刻師の手で彫られました。この五百羅漢堂には、500体の羅漢と、その上位の弟子達、合わせて527体の仏像が並んでいます。その荘厳な空間は見たことのない神秘さを湛えています。


施設の情報

天寧寺

拝観料 400円
拝観時間 9:00~17:00