2021年1月6日

妙心寺に関する追加情報

 妙心寺に関する追加情報

元々は、花園上皇(1297-1348)の御殿があったところを利用して禅寺に改変したようです。(花園上皇は、1308年に天皇に即位、1318年に譲位して上皇になっています。)

当時の京都の禅寺には、室町幕府に守られ発展したいわゆる「官寺」と、それを受け入れなかった一派があったといわれています。妙心寺は、室町幕府を受け入れなかった方のグループの代表格でした。

この妙心寺は、天龍寺のような官寺とは、政治的には与党対野党のような関係にあったと思われます。建立当時の両派の立場はまだ互角の勢力だったのですが、後醍醐天皇の急死ののちは、室町幕府側が力を伸ばし対抗する妙心寺の勢力は衰退していきます。

そういう政治情勢の中で、14世紀の後半になると3代将軍・足利義満の弾圧を受け、寺院没収の憂き目にあいます。

1430年ごろ妙心寺は再興されますが、そののち起こった応仁の乱で伽藍が焼失し、また暗い時代が逆もどりしました。1510年ごろから戦国武将の援助を受け、伽藍の拡張と、塔頭寺院の集積が始まりました。

残存する主要な建造物の建設時期を確認すると、三門:1599年建立、勅使門:1610年建立、法堂:1656年建立、大方丈:1654年建立です。安土桃山末期から江戸時代初期にかけて、当時の武家勢力の援助で現在の姿に復活を遂げたのでした。

妙心寺は、妙心寺派大本山として、修行の実践や信者の安寧に力を入れているようです。室町幕府との対立関係については、妙心寺のパンフレットの中ではあえて触れられていません。そういうこだわりを捨てることが禅の神髄なのかもしてません。




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