2020年10月9日

松本城:黒い天守が水面に輝く城

 松本城:黒い天守が水面に輝く城





松本城は、長野県松本市にあります。

この城は残念ながら城というエリアは維持しておらず、美しい天守とその周辺の本丸が存在しているに過ぎません。

天守のある本丸は、周囲を内堀が囲み、他から隔離された構成となっていました。かつてはその外側に、コの字型の二ノ丸が本丸の南側をカバーする形で取り囲み、その外側も内堀が他とのつながりを遮断していました。ここが城の中核部分で、「内曲輪」と呼ばれていたようです。

その外側に、この内曲輪すべてを取り囲む広大な三ノ丸が存在し、それを取り囲むように広い外堀が四周に存在していました。かつての内曲輪の範囲は広いところで約300メートル、狭いところで約200メートルの長方形でした。三ノ丸と呼ばれたエリアは、広いところで約600メートル、狭いところで約500メートル。これが本来の松本城で、広大な城域を有する平城だったわけです。




豊臣秀吉の時代、徳川家康の関東への移封にともなって石川数正が松本城主となり、天守の造営などの城の再整備が行われました。

この城は守りを重視した堅城というよりは、見せる城だったのではないでしょうか。そして遠くからでも目立つ巨大な天守を造って、豊臣時代の盤石さをアピールしようとしたのだと思います。


松本城の誕生時期

天守が造られたのは、石川数正の息子、石川康長の時(1592年ごろ)だということが、史料などから推測されています。再建された近世城郭建築(黒門、太鼓門など)の原型にあたる建造物はその時に造られたようです。

城の外堀の5か所に出入口「虎口」があります。1729年に描かれたと言われている古地図の「虎口」は武田流馬出しの形状をしています。そのことから、この城の元々の築城者は武田家の誰かではないかと想像されています。また、部分的な発掘調査からも、この基本レイアウトは武田家が支配していた時代(1550~75ごろ)のものだということが推測されるそうです。


松本城の美

黒い下見張りの外壁が戦国時代の物々しさを感じさせる一方で、天守、乾小天守、辰巳附櫓が三角形の美しいプロポーションを見せてくれます。




見学者は北側に設けられた通路に沿って本丸を半周して天守の入口に至ります。入口は天守と乾小天守の間に挟まれた位置にあり、乾小天守の中間階から天守へ移動し、天守の最上階まで登ってから中間階まで降りてきます。そこから辰巳附櫓へ移動し、月見櫓の下の別の出口から外に出ます。

天守と内堀との関係を観察するには、本丸の南側の松本城公園からがいいでしょう。ここは、内堀越しに天守を望む絶景スポットで、広々とした公園になっています。内堀の巾は天守の南正面で約60メートルとのことです。建設当時の鉄砲の射程距離を考慮して決められたようです。


その他の情報

松本市内は周囲を高い山で囲まれた盆地で、山に降った雨が湧水となって市内の至る所で自噴水が噴き出しています。市内各所にある自噴井戸は観光客向けの説明看板が整備され観光名所として整備されつつあります。この城の内堀の水源は、自噴する湧き水かもしれません。




本丸へは、1960年に再建された「黒門」から入ります。付属の門と合わせて「桝形」を形成しています。残念ながら中へ入ることはできません。

本丸御殿、二ノ丸御殿、古山地御殿の3つの御殿があったようです。本丸にあった御殿は1727年に火災で焼失して以来再建されず、それ以降は庭のような空間として使われていたようです。二ノ丸御殿の方は明治に入ってから焼失しています。古山地御殿は小規模なもので、明治に入って取り壊されたそうです。




二の丸の東側の出入り口に「太鼓門」が1999年に再建されています。この門も内部に入ることはできません。

参考文献:「図説国宝松本城」 中川 治雄/著 一草舎出版


施設の情報

松本城

開場時間 8:30~17:00(最終入場16:30)

入場料 700円(大人1人):300円(小・中学生1人)

休み 年末(12/29~31)


 

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