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2024年10月4日

要の城・吉田城

要の城・吉田城





先日、豊橋市の吉田城を訪問しました。現在の吉田城は、大きな城ではありませんでした。また、私たちの知る限り、歴史的に大きな出来事があった場所でもなかったと思います。しかし、少し調べたところ、歴史上大変重要な城であった事を知りました。私たちの印象では、この城は有名でないから、このままでは歴史の闇に葬られてしまうかもしれないと思いました。そういうことにしたくないから、ここでいかに重要な城であったのかを記録しておきたいと思い、この記事を書きました。
  
立地
この城の歴史は、徳川家康の活躍した時期の出来事と大きく関連しています。よく知っていることの繰り返しになるかもししれませんが、もう一度振り返ってみたいと思います。徳川家康は、岡崎城の城主の息子として生まれ、紆余曲折ののち岡崎周辺の支配者となりました。岡崎の西側は、織田信長の領地で、岡崎の東側は、今川氏真の領地でした。さらに、岡崎の北側に支配者はなく、小規模の豪族が支配していました。問題なのはその先で、そのさらに北には、武田信玄の支配地がありました。最後に岡崎の南側は、小規模な豪族の支配地でした。そちら方面に脅威はなかったかもしれませんが、その先は太平洋で、そちらに向かって広げられる領土はあまりありませんだした。

こういう状況に投げ込まれた徳川家康の戦略は明確で、織田信長と同盟し、周囲を攻めるという戦略を取りました。岡崎の南側、岡崎の東側という順で小規模な豪族を攻め、支配地を広げていったのです。岡崎の北側にいる豪族は、徳川家康と武田信玄に挟まれていたので、徳川に攻められれば降伏し、武田が攻めてくれば徳川を裏切って武田につくという、ある意味ずる賢い戦略を取っていました。岡崎の安定を考えれば、北方の支配地を広げたいのはやまやまでしたが、徳川家康にはそれができない状況があったのです。

そういった中、背後にいる今川の勢力が弱まった東側方面への侵略を続け、巨大な湖、「浜名湖」の西側までの、いわゆる三河地域の攻略に成功します。同盟者、織田信長からの要請は、さらに東に向かい、今川を倒すことでした。徳川家康の決断は、その要請に答えることしかなく、浜名湖の東側へ進出する決断をしました。しかも、退去しやすい湖周辺でなく、浜松まで進んで、そこに城を築きました。これも織田信長の要請に答えたものだったと思われます。




経緯
ここまでの経緯を、地図と照らし合わせて、整理しておきたいと思います。徳川家康の本拠地は岡崎城でした。東西に細長い支配地の西側の端に岡崎城はありました。徳川家康本人が進出した浜松城は、この時点での支配地の東側の端にありました。西側の端にある本拠地(息子が城主だった)と、東側の端にある戦略拠点に強力な城がありましたが、中央部分には目立った根拠地はありませんでした。

ここで思い出さないといけないのは北側からの脅威です。領地に面する北側には、強力な敵はいませんでしたが、さらにその北の武田が攻めてきたときには、徳川に味方すると約束していても、すぐに裏切って攻めてくるような豪族がひしめいていました。そういう状況に対して徳川家康が取れる戦略はあまりありませんでした。岡崎城を捨てるわけにはいかなかったので、本拠地はそのままにして、中間地点の吉田城を強化することにしたのでした。ちなみに織田信長は、支配地が広がるにつれ本拠地を果敢に移動させました。しかし、徳川家康にはそれができなかった。織田信長は自分がやっているような合理的な判断を、徳川家康にも要求したと思われますが、本当のことはわかりません。

ここで強化する「中間地点の城」として吉田城が選ばれたのは、岡崎城と浜松城へのアクセスを考慮した結果だと思われます。この当時、吉田城のあったエリアには多くの豪族がつくった小さな城がいくつもありました。ですから、徳川家康にはこの地に城を造るにしろ、選択肢はいくつかあったはずです。別の小さな城を、大きな城へ改修してもよかったし、大きな城を新しく建ててもよかったはずです。もともとあった吉田城を改修したのは、立地条件(他の城へのアクセスの良さ)が理由だったと思います。もう一つ考えられるのは、予想される武田の侵攻を食い止められる城に改修できる地形条件をこの城が備えていたからだと思います。




誕生
このような経緯を経て、吉田城は徳川家康の最も有力な部下、酒井忠次の手で改修されることになりました。吉田城の改修を行った酒井忠次にしてみれば、最前線の戦略拠点、浜松城が建設途中でしたから、それほど大規模な工事は進められなかったと思います。

しかし一方で、最強の仮想敵国、武田が攻めてきた場合、今までの豪族間の小競り合いの戦闘規模で済むとは思えなかったでしょうから、数百人が守る規模の城だった今までの吉田城では、今後想定される戦闘に耐えられるとは思えないという判断が下されたことでしょう。たぶん、数千人が守る規模の城に改修されたと思われます。では、数千人が守る程度の城で、一万人を超える敵が攻めてきたとき、その圧力に耐えられるでしょうか?そこまでの大規模な動員は、可能性が低かったし、この城が改修された時期が、そこまで想像力を膨らませられた時期だったのかはっきりしません。

歴史的にみれば、一万人を超える武田軍が吉田城を攻めた戦いが実際に起こったようです。ある資料によれば、1571年に武田信玄率いる武田軍が、北から侵入し、岡崎城と浜松城の補給線を断とうとしたそうです。別の資料では、それが起こったのは1574年のことで、武田勝頼率いる武田軍の侵攻であったといいます。どちらの説が正しいのかはっきりしていないようです。

戦いの経緯は、吉田城の北東にある支城に、酒井忠次軍が籠って敵をひきつけている間に、5000人余りの徳川家康軍が吉田城に入城しました。支城の守りは手薄で、酒井忠次は500人余りを失い、それを助けようとした徳川家康も2000人余りの兵士を失いましたが、酒井忠次の救出には成功したそうです。その結果、徳川軍は吉田城に籠ることに成功し、包囲戦は長期化するとみられたので、それを嫌った武田軍はさらに戦わず、撤退したそうです。

この戦いが1571年に起こっていたとしたら、1573年に起こった有名な「三方ヶ原の戦い」に匹敵する規模なのに、注目されていないのはなぜなのでしょうか? 一方、1574年に起こったのだとしたら、1575年に起こった、こちらも有名な「長篠の戦い」に比べて、ほとんど語られないのはなぜなのでしょうか? 

我々が考える結論は、武田軍の侵攻と、吉田城での戦いは実際にあったと思いますが、たぶんその規模は記事で語られたものよりずっと小規模だったのだと思います。しかし、その戦いで、万が一にもこの吉田城が落城していたら、岡崎城と浜松城の間は切り離されてしまっていたのは間違いありません。そうなれば、徳川の力は削がれ、最悪は滅亡していたかもしれません。吉田城はこの時期の徳川軍にとって、とても大切な城であったのです。別の表現をすれば、この時期の徳川軍の「要の城」であったのだと言えると思います。





現在の吉田城は・・・
吉田城址では、石垣で囲まれた本丸やいくつかの曲輪を見ることができます。この城跡にある建造物は、資料に基づいて再建された鉄筋コンクリート製の櫓で、資料館になっています。遠方から見れば、天守のようにも見え、城郭址らしい雰囲気を醸し出しています。一方で、三の丸の広大な土地には豊橋市役所のビルが建っていて、城の建物が小さく見えてしまうのが残念なところです。

実は、酒井忠次が改修した吉田城がどんな姿をしていたのか、現在の吉田城の姿から図り知ることはできないのです。酒井忠次の吉田城は、その後支配者となった池田輝政の手で全面的に改修されてしまったため、跡かたもなくなっています。

このあたりの歴史を振り返ってみると、1590年ごろ、豊臣秀吉が日本を支配することになり、徳川家康はその傘下に入りました。その結果、徳川家康は江戸に支配地を与えられ、三河を離れることになります。三河地域には、豊臣秀吉配下の武将が配置されました。吉田城に入ったのは池田輝政で、酒井忠次の時より広い支配地を与えられたので、吉田城はそれにふさわしい広大な城に改修されました。

本丸の石垣はこの池田輝政の時代のもので、酒井忠次の時にも、本丸の周囲に石垣があったのか、それとも石垣は使われずに土塁のみだったのかはよくわかりません。しかし、城の北側に大河があり、本丸の背後はこの川で防御し、本丸の周囲を何重もの曲輪で防御するというレイアウトは同じであったと思われます。

違っていたのは、酒井忠次の時には敵は北東から攻め寄せてきましたから、北東に支城を造ったりして、そちら側の防御が優先されていたと思われます。池田輝政の時には、仮想敵国は、徳川家康の支配する関東でしたから、徳川家康の領地に面した、南側の防御が重視されたと思われます。





石垣の積み直し作業をしていた・・・
本丸の四方は石垣で囲まれていて、正方形の形状をしていました。そして、その四隅には櫓があったようです。というのは、博物館内にこの場所の昔の姿を再現した模型が置いてあって、それがそのようになっていたからです。

本丸の周囲の石垣は、長い間保全が不十分だったことが原因で、近年崩れ始めていました。ところが、昨今のインバウンドブームを当て込んで、吉田城にも外国人旅行者を呼び込もうと考え人がいたようです。その結果、石垣を補修して、吉田城をもっと観光客を呼び込める城に改修する計画が策定されました。この計画は数年前から進められていて、昨年は本丸正面の門周りの石垣の積み直しが行われました。今年は本丸北側の河岸へ降りる辺りの石垣の積み直しが行われていました。そのため、城の見学者が自由に見て回れる範囲が制限されていました。しかし、石垣の補修工事があったおかげで、石を積む職人の姿を見ることができました。そういうチャンスは中々ないので、よいタイミングで訪問したと思いました。

石を積んでいる光景だけでは、どんな成果があったのかわからなかったので、ユーチューブで検索してみると、石垣の積み直しの研究成果を語る動画を発見しました。その動画の説明によれば、現在ある石垣は、池田輝政の造ったものをベースにしているものの、実際に造ったのは江戸時代に城主になった別の人物だったようです。残っている石垣だけでは、だれがそれを造ったかまでは、特定が難しいようですが、数回積み直しがあったらしいということまでは分かっているようです。さて、豊橋市まで行って吉田城を見るのはなかなかマニアックな観光になるでしょう。ですが、敢えてトライしてみるというのはどうでしょうか?








2021年1月16日

掛川城:木造再建天守と現存二ノ丸御殿

 掛川城:木造再建天守と現存二ノ丸御殿



掛川城は、静岡県掛川市にある城郭です。

掛川駅から500メートルほどのところにお城の入口があります。お城の周りは様々な観光施設が建ち並んでいます。美術館や茶室、移築した武家屋敷、明治時代に建てられたレンガ造りの家屋などです。お城の建物としては、再建された天守、現存している二ノ丸御殿などがあります。

この城のちょうど中央部分、二ノ丸と三ノ丸の境目のあたりを道路が横切っていて城域は分断されてしまっています。そのため、三ノ丸から大手門にかけての領域は、城の領域ではないような印象になってしまっています。二ノ丸、天守側もにかけても、道路があるため本丸へ向かう急な階段がつくられています。建物の配置が無理矢理な感じは二ノ丸御殿にも及んでいて、玄関先の空地が狭くなっていて立派な玄関が引き立っていません。天守と二ノ丸御殿があることでお城らしさは感じられるのですが、お城全体がどういう縄張りだったのかは想像しにくくなっています。


木造再建天守

この天守は1993年に木造で再建されました。3層4階の天守を木造で再建するというのは画期的なことでした。というのは、現在の建築基準法はこの規模の木造を認めていません。したがって、特別な努力があったと思われます。オリジナルの天守の外観を確認できるものはなく、古い図面や高知城の天守が参照され現在の姿が選ばれたようです。




本丸エリアに向かう階段を上り、重厚な城門をくぐると入場券の販売所があり、正面に本丸の空地が見えます。本丸の北側に天守のある小高い丘があり、土塀でガードされた階段を上って天守に向かいます。天守のあるエリアは、天守丸と呼ばれた独立した空間だったようです。

天守丸の東側には、脇曲輪という部分と独立した内堀があったようです。現在は、そのどちらも失われてしまっており、天守丸の東側にある二ノ丸へ向かう狭い通路に変化してしまっています。




内部は、玄関から続く通路を入ると階段を数段上がった天井の高い1階部分に至ります。そこは、展示施設になっていて、甲冑、兜、刀、武器などが展示されています。2階部分は広い一室で天守閣内部の広さを感じます。あまり展示物はなく自由に動き回れます。階段の踊り場のような3階を通過して4階は展望室です。城主はこの位置から掛川の町を一望したことでしょう。とてもよい見晴らしです。

木造再建天守は他にもあるのでしょうか。また、オリジナルとは何が違うのでしょうか。こういう疑問に関してもう少し知りたい場合は、ここをクリックして見てください。


現存二ノ丸御殿

二ノ丸には現在、、1861年に建てられた二ノ丸御殿と、二ノ丸美術館、二ノ丸茶室があります。二ノ丸の庭に立ち西側を見上げると天守を見ることができます。城主はこの庭から天守の雄壮を眺めていたのでしょう。




この城のように(明治時代直前とはいえ)江戸時代につくられた御殿が現存している例はほとんどありません。ですから、とても貴重で重要文化財に指定されています。

内部は、西側が表の空間で、大広間や城主の書院、納戸などがあります。一方、東側は城主の日々の暮らしをサポートする裏方のスペースになっています。台所、家来たちの執務室、倉庫などです。一部の空間は失われてしまっていて、その全容はうかがえません。開放感のある西側に比べて、東側は窓が小さく、部屋の造りも裏方然としていて、薄暗く感じます。




施設の概要

掛川城

開場時間 9:00~17:00
入場料 410円(大人1人):小中学生は150円
年中無休 


2020年11月15日

越前大野城:北陸にある天空の城

 越前大野城:北陸にある天空の城



「越前大野城」は福井県大野市にある城址公園です。

この城は、11月ごろのある条件下で、霧の中に天守のあるエリアだけが浮き出て見える天空の城として有名です。天空の城と呼ばれているので、山城ではないかと思っていましたが、城郭の分類でいえば平山城です。城の前には城下町がつくられ、現在の大野市の中核をなしています。

この城は金森長近という武将が1575年ごろに築城を始めた城です。同じころに織田信長の安土城がつくられています。長近は信長の家臣でしたから、この城は安土城のアイデアを踏襲したのではないでしょうか。

信長のつくった安土城はそれまで主流だった山城スタイルを、平山城スタイルに変革しました。信長のつくった城ですら、安土城より前の岐阜城や小牧城では、山城スタイルの城でした。しかし、たぶん山城に逃げ込むような戦い方では、大軍で攻め込む敵に対しては無力であることを悟ったのだと思います。城の中心部は丘の頂点に設けるにしても、周囲を堀と石垣で囲んで、万が一の時にはその中に大軍が籠城できる平山城という空間をつくり出したのでした。




この越前大野城の城づくりはどうだったのでしょうか。

城山に囲まれた東向きの平地に御殿のある二ノ丸が配置され、それを囲んで三ノ丸、さらに外曲輪が取り囲んでいました。したがって、中心の御殿は三重にガードされ、後ろ側は堅固な城山に守られていました。さらに三ノ丸と外曲輪の外周には塀と堀が存在していたようですが、この塀や堀を長近がつくったのかは不明です。



見方を変えると、この城は御殿の防衛に主眼を置いているともいえます。
御殿を厳重に防御し、それでも守り切れなかったら天守閣のある裏山へ移るという、山城の防御メソッドの延長とも取れそうです。


越前大野城の歴史

この城がこの地につくられたのは、この地を治めていた朝倉氏が、信長に滅ぼされた後、政治的な空白がもたらされたからでした。朝倉氏を滅ぼした信長が長近という家臣をこの地の支配者にすえたのかと思っていましたが、事情は少し違いました。信長は朝倉氏を滅ぼした後、その旧臣の多くを許し、彼らを家臣として召し抱えてこの地を統治させたのでした。




ところが、一年もしないうちに内紛で旧臣同士が戦い、お互いを殺しあった結果、あろうことか宗教勢力の支配する国と化してしまったのです。信長はその結果に怒り、改めて越前に侵攻し、朝倉氏の旧臣勢力と宗教勢力を壊滅させました。この2度目の侵攻作戦の時、長近は美濃から越前に向かい、越前と美濃の間の大野を侵略しました。そしてその功績を認められて大野の支配者となったのでした。

長近は、この地を約10年間支配したのち、次の権力者である豊臣秀吉の命令で飛騨の国へ移りました。そののち、多くの大名がこの地の支配者となりましたが、それ以降だれがどのような工事を行ったかというような話はほとんど記録されていません。その後この城は、越前の中心である福井城の周囲を守る城の一つとして、静かな脇役のまま明治時代を迎えたのでした。



この城が天空の城に変化するのは11月ごろの明け方から午前9時ごろで、大野の盆地に霧が発生するタイミングのみです。
オーロラを見に北欧の国を訪ねたとしても、オーロラに出会えるチャンスがほとんどないように、城の雲海に出会うチャンスも幻のようなものかもしれません。


施設の情報

越前大野城

開場時間 9:00~17:00 (10月・11月は、16:00まで)
入場料 200円(大人1人):中学生以下は無料
休み 12/1~3/31(冬の間は閉館です)



2020年10月9日

松本城:黒い天守が水面に輝く城

 松本城:黒い天守が水面に輝く城





松本城は、長野県松本市にあります。

この城は残念ながら城というエリアは維持しておらず、美しい天守とその周辺の本丸が存在しているに過ぎません。

天守のある本丸は、周囲を内堀が囲み、他から隔離された構成となっていました。かつてはその外側に、コの字型の二ノ丸が本丸の南側をカバーする形で取り囲み、その外側も内堀が他とのつながりを遮断していました。ここが城の中核部分で、「内曲輪」と呼ばれていたようです。

その外側に、この内曲輪すべてを取り囲む広大な三ノ丸が存在し、それを取り囲むように広い外堀が四周に存在していました。かつての内曲輪の範囲は広いところで約300メートル、狭いところで約200メートルの長方形でした。三ノ丸と呼ばれたエリアは、広いところで約600メートル、狭いところで約500メートル。これが本来の松本城で、広大な城域を有する平城だったわけです。




豊臣秀吉の時代、徳川家康の関東への移封にともなって石川数正が松本城主となり、天守の造営などの城の再整備が行われました。

この城は守りを重視した堅城というよりは、見せる城だったのではないでしょうか。そして遠くからでも目立つ巨大な天守を造って、豊臣時代の盤石さをアピールしようとしたのだと思います。


松本城の誕生時期

天守が造られたのは、石川数正の息子、石川康長の時(1592年ごろ)だということが、史料などから推測されています。再建された近世城郭建築(黒門、太鼓門など)の原型にあたる建造物はその時に造られたようです。

城の外堀の5か所に出入口「虎口」があります。1729年に描かれたと言われている古地図の「虎口」は武田流馬出しの形状をしています。そのことから、この城の元々の築城者は武田家の誰かではないかと想像されています。また、部分的な発掘調査からも、この基本レイアウトは武田家が支配していた時代(1550~75ごろ)のものだということが推測されるそうです。


松本城の美

黒い下見張りの外壁が戦国時代の物々しさを感じさせる一方で、天守、乾小天守、辰巳附櫓が三角形の美しいプロポーションを見せてくれます。




見学者は北側に設けられた通路に沿って本丸を半周して天守の入口に至ります。入口は天守と乾小天守の間に挟まれた位置にあり、乾小天守の中間階から天守へ移動し、天守の最上階まで登ってから中間階まで降りてきます。そこから辰巳附櫓へ移動し、月見櫓の下の別の出口から外に出ます。

天守と内堀との関係を観察するには、本丸の南側の松本城公園からがいいでしょう。ここは、内堀越しに天守を望む絶景スポットで、広々とした公園になっています。内堀の巾は天守の南正面で約60メートルとのことです。建設当時の鉄砲の射程距離を考慮して決められたようです。


その他の情報

松本市内は周囲を高い山で囲まれた盆地で、山に降った雨が湧水となって市内の至る所で自噴水が噴き出しています。市内各所にある自噴井戸は観光客向けの説明看板が整備され観光名所として整備されつつあります。この城の内堀の水源は、自噴する湧き水かもしれません。




本丸へは、1960年に再建された「黒門」から入ります。付属の門と合わせて「桝形」を形成しています。残念ながら中へ入ることはできません。

本丸御殿、二ノ丸御殿、古山地御殿の3つの御殿があったようです。本丸にあった御殿は1727年に火災で焼失して以来再建されず、それ以降は庭のような空間として使われていたようです。二ノ丸御殿の方は明治に入ってから焼失しています。古山地御殿は小規模なもので、明治に入って取り壊されたそうです。




二の丸の東側の出入り口に「太鼓門」が1999年に再建されています。この門も内部に入ることはできません。

参考文献:「図説国宝松本城」 中川 治雄/著 一草舎出版


施設の情報

松本城

開場時間 8:30~17:00(最終入場16:30)

入場料 700円(大人1人):300円(小・中学生1人)

休み 年末(12/29~31)


 

2020年9月18日

金沢城:本丸が立入禁止だった巨大な城

 金沢城:本丸が立入禁止だった巨大な城

再建された橋爪門(五十間長屋の一部)

「金沢城」は、石川県金沢市にある城址公園です。この城は、豊臣政権期から江戸時代を通して前田氏の居城でした。

訪れたとき、この城の中心部であるはずの本丸は閉鎖され立ち入り禁止でした。その理由は「この付近でイノシシが目撃されたので、安全のため立ち入りを禁止する」とのことでした。この城は、城の中心である本丸にたどりつけない唯一の城かもしれません。


再建された「五十間長屋」

この公園の中心は「五十間長屋」という再建された建物です。そして、この建物がこの公園の中心的な存在と言っていいでしょう。この建物は、二ノ丸御殿の東正面を守る櫓、長屋、門が複合した巨大な建築物でした。

そしてこの建物に守られた背面には、広大な二ノ丸曲輪があり、そのほとんどを占める広大な二ノ丸御殿があったのですが、現在は広い空き地でしかありません。


二ノ丸内部の空地

五十間長屋の奥はどうなっていたのでしょうか。

二ノ丸の広大な空地の先には「玉泉院丸庭園」という美しく整備された場所があります。綺麗に整備されているので城の主要なな建物があった場所なのかと考えてしまいましたが、元々は城の外周部でした。城内に閉じ込められるのを嫌った歴代城主の1人が、1630年ごろ「金谷御殿」という別荘をつくった場所なのです。


玉泉院丸庭園

現在のこの公園と城の境界ラインはあまりはっきりしていないので、元々どんな感じだったのか想像しづらくなっています。江戸時代にはこの辺りは切り立った崖になっていて、防衛のための建造物もそれほどなかったのだと思います。

二ノ丸の背面の崖地を登ると、現在はただの空き地ですが、かつては「本丸付段」と呼ばれる本丸を防衛するための場所があります。この城は、丘の一番高いところを本丸、それを守る本丸付段、その次に二ノ丸、その手前にさらにいくつかの曲輪というレイアウトでした。

この様な、何重にも防衛された城の中心部の本丸は、逆を言えば奥まっていて不便で、十分な広さがなく、平和な江戸時代にはあまり活用されなくなっていました。広大な二ノ丸にすき間なく二ノ丸御殿がつくられ、そこが江戸時代を通して城の中心部となりました。本丸の建物は江戸時代の初めに火災で焼失してしまい、幕府の顔色をうかがって天守の再建も行わなかったため、ほとんど利用されない場所になっていたようです。

本丸付段には「三十間長屋」という櫓(1853)が現存しています。


三十間長屋

それでは、二ノ丸の手前側はどうなっていたのでしょうか。

二ノ丸の手前には「鶴ノ丸」と呼ばれる場所があり、現在は休憩所があります。遺構としては「鶴丸倉庫」(1848)があります。立地的には、西側の丘の上にある本丸の足元の空間で、小規模な独立した曲輪だったのでしょう。

その手前の三ノ丸には、重要文化財「石川門」(1788)と、再建された「河北門」があります。河北門の先の広大なエリアの先に「大手門口」があります。石川門の先は現在は広い道を挟んで「兼六園」に通じています。


石川門

この城は、平地の中に独立した台地状の部分を城域とした「平山城」です。城に周囲はかつては堀に囲まれていましたが、多くは埋め立てられています。城域を囲む広い道は、かつては広い堀だったのですが、その痕跡は残っていません。外堀の一部分(いもり堀)が再現されています。

周辺地域は町の中心部分にもかかわらず、歴史的な建造物が比較的多く残っています。金沢城の歴史についてもう少し書いてみました。ここをクリックして見てください。


施設の情報

金沢城公園

金沢城「五十間長屋」のみ有料
開館時間 9:00~16:30
入館料 310円(大人1人):100円(小人1人)
年中無休



2020年9月13日

田峯城:武士の館を山頂に再現してしまったユニークな山城 

田峯城:武士の館を山頂に再現してしまったユニークな山城



「歴史の里 田峯(だみね)城」は、戦国時代の山城・田峯城があった場所に建てられた(言ってしまえば)博物館です。荒廃した山城を1994年に町が整備して、武士の館(博物館)を建設したのです。この館はこの山城に元々あった建物とはまったく違っていて、戦国時代末期の有名な大工の指南書に書かれていた有名な建物にそっくりでした。

戦国時代の山城という場所と、この武士の館はミスマッチなはずなのに、なぜかしっくりおさまっているのです。その理由は、歴史的には変なのですが、この館が本物のクオリティを持った建物に仕上がっているからだと思います。もっと有名になってもいい観光スポットだと思います。

この場所は、実際に山城があった場所ですから、歴史的な物語が潜んでいます。その歴史の話、このミスマッチな武士の館の話などをまとめてみました。




田峯城の現在の姿

この「歴史の里 田峯城」は、愛知県設楽(したら)町にあります。この城がある設楽町は、有名な戦国大名の武田氏の拠点があった諏訪から、京都へ向かうルート上にあります。武田氏といえば、信玄が有名ですが、その息子・勝頼も京都を目指し、行く手に支配地を持つ織田信長・徳川家康連合軍と交戦しました。これが有名な「長篠の戦」ですが、田峯城もこの戦いに登場します。ただ、とてもマイナーな登場の仕方でしたから、よほど歴史に興味がある方でないと、気づかないかもしれません。

この続きをもっと詳しく知りたい方は、ここをクリックして見てください。




「匠明」に書かれた武士の館

今度は、武士の館にまつわる情報に触れたいと思います。この建物の設計図が書かれていた「匠明(しょうめい)」というのは、戦国末期に活躍した大工集団の棟梁の秘伝書でした。その「匠明」に書かれている武士の館の平面図は、施主のどんな要求にも応用できる万能平面図でした。

さて、田峯城の本丸にある資料館は、その「匠明」の武士の館がそっくりそのまま再現されているので、実に美しい建物になっています。しかし一方で強い違和感を感ぜざるをえません。山城の本丸にそんな平面図を持った館が存在するわけがないからです。

この続きをもっと詳しく知りたい方は、ここをクリックして見てください。




山城としての価値

最近はお城ブームで、山城も注目されていると思います。山城の多くは整備が不十分で、十分注意してから目指さないと危険な目に合うこともありそうです。その意味では、十分整備されたこの田峯城は、アプローチが容易です。

この城は切り立った山を削って平地をつくり、いくつかの平地を束ねて城域としています。盆地側はそれほど切り立っていないので、土塁と、空堀で囲み、その上に柵を設けて敵の侵入を防いだのでしょう。

城の反対面の急な坂の下には山沿いに作手街道があり、それを見下ろす位置にこの城はあります。街道を移動する敵なら上空から圧倒的優位に攻撃できるのでしょう。ただし見学する上では、この方面は急な崖になっていて、山城探検に慣れていないと危険な感じです。

前半部分で、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いのマイナーな部分に田峯城が登場すると書きました。その話に興味がありましたらここをクリックしてください。


施設の情報

歴史の里 田峯城

入城料 大人:220円、子供(小・中学生):110円

休城日 毎週月曜日・祝日の翌日・年末年始(12/29~1/3)