2020年12月30日

田峯城に関する追加情報

田峯城に関する追加情報


完成時の姿 建設会社のホームページより


田峯城の現在の姿(続き)

田峯城のある愛知県設楽町は太平洋の海岸線から約40キロ北に向かった山奥にあります。この辺りの海岸線に面した平地はそれほど広くなく、すぐに山間になってしまいます。この辺りの山間部は、道がどこにつながっているのか、その土地の住民でないと分からないと思います。戦国時代も同様で、土地勘を持っていない限り、どこに集落があり、どこに城が潜んでいるのか分からないエリアでした。

この城は、この辺りの盆地を勢力圏とした豪族の菅沼氏がつくったものです。戦国時代、信州方面から、徳川家康が支配する岡崎方面へ向かうルートがいくつかこの辺りを通っていました。織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いが、この付近の長篠城を舞台に起こったのも、このルートがあったからだと思います。そのルートのひとつに作手(さくで)街道というのがあって、この道は田峯城の直下を通ります。菅沼氏が城の立地を決めるにあたり、この街道の存在を重要視したのは間違いないと思います。

この城のある盆地は木の生い茂る山々に囲まれており、ドローンでもない限り見つけ出すのは至難の業です。設楽町あたりから、寒狭川(かんさがわ)という川が太平洋へ向かって流れ出ていますが、流れに沿って主要幹線道路も走っています。現在、この城へ向かうには、その主要幹線道路で最寄りの間道まで行き、そこから山を登る狭い道路に入ります。主要幹線道路から間道へ入る地点までは、ナビさえあればたどり着けます。しかし、その先は少し苦労します。登り口から城の入口までは約500メートルですが、くねくね曲がった道を登るのに、資料によれば徒歩で30分かかります。多分この道が旧作手街道と同じような位置にあるのだと思います。この城は狭い道を登って行った頂点にあり、下からではその姿を確認することができません。



盆地に入ってしまうと、道の傾斜は緩くなり運転しやすくなります。しばらく農地とまばらにある住宅を通り過ぎた先の茶畑のようなところの先にこの城はありました。城域は雛壇上にいくつもの平らな部分が連続しているだけなので、どこまでが城なのか見分けがつきません。山城を実測してまとめた書物があるのですが、その記述によれば、長手方向で300メートル、短手方向で200メートルくらいあるようです。中央の最頂部の本丸が最も広い平地で、50メートル×30メートルの楕円形の形状をしているようです。

この最頂部の平地を利用して、武士の館(資料館)がつくられています。この資料館は、一見歴史的建築物のように見えますが、つくられたのは1994年ですから、築25年程度です。時を重ねたことで城館の色合いも雰囲気を醸し出してはいるのですが、本物ではないことも事実です。

参考文献:「愛知の山城ベスト50を歩く」 愛知中世城郭研究会/編 サンライズ出版
      「信濃をめぐる境目の山城と館」 宮坂 武男/著 戎光祥出版



「匠明」に書かれた武士の館(続き)

織田信長や徳川家康といった有名な戦国大名が数多く登場する戦国時代末期は、建物を建てる大工にとってはとてもいそがしい時代でした。戦国大名は戦いを繰り返していましたから、焼け落ちた城や屋敷は建て直したり、新しくつくったりしなければなりません。財を蓄え、力をつけた戦国大名はこの時代次から次へと新しい建物を建てました。この時代は一大建築ブームに沸いていたのです。

そういう時代の中で、大工の棟梁がいかに天才的な構想力を持っていたとしても、力におごった戦国大名の要求を満たすのは至難の業でした。大工の棟梁にしてみれば、受注してから考えるのでは間に合いませんから、あらかじめそのための準備がしてあったのです。その準備のうちの1つが、秘伝書「匠明」という訳です。「匠明」には神社、寺院、屋敷などその時代に建てられた建物の基本となる図面がすべて網羅されていました。

「匠明」の平面図

武士の館の図面も基本図面の1つでした。その万能平面図には、戦国大名が館を建てる場合に期待するであろう部屋が網羅されていました。そして、もっと大きな部屋がほしいだとか、部屋の数を増やしたいだとかの要求が出れば、その部分だけを付け足せばよかったのです。

上図をもとに研究者が再現
この秘伝書のもう一つの意味合いは、建物をつくるときのプロポーションの美しさをどう実現するかの秘伝でもありました。平面図の組み合わせを基本として、できあがった建物のプロポーションが美しくなるような基本的な決まりごとがすべて書かれていたのです。ですから大工の棟梁は、この本に書かれたルールを踏襲しながら計画を練り、微調整をするだけで失敗のない建物をつくることができたのです。


パンフレットのレイアウト図
この時代、設計図は「木割」といいましたが、「木割(きわり)」は「美しいプロポーションとは何か」を示す言葉でもありました。柱の寸法はいくつ、畳の組み合わせはいくつ、そういうルールを守れば、「基本の美しさ」が達成できるというわけです。このルールは、屋根のプロポーションや、天井までの高さなどすべてに渡るので、万能の秘伝書という訳です。似たものを探すと、西洋の美の基準のひとつに「黄金比」というのがありますが、そのような意味合いのものだったと思います。


研究者による立面図

この建物は、築25年を経て、建具が外れてしまったり、こけら葺きの屋根の劣化が気になり始めています。どのような保全整備を考えているのかも気になるところです。

参考文献:「匠明」 平内 政信/著 伊藤 要太郎/校訂 鹿島出版会
      「木割の話」 河田 克博/著 インターネットより




織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との戦い(続き)

武田信玄というカリスマ的な戦国大名がもっと長く生きていれば、彼が織田信長を倒していたかもしれません。しかし、武田信玄は病死してしまいます。その結果、織田信長はその息子、武田勝頼と戦うこととなりました。

武田勝頼は父親の遺志を継いで、しゃにむに京都へ向かいます。勝頼は強力な騎馬軍団を武器に、長篠城付近で信長と対峙すこととなります。これが「長篠の戦い」です。そして、信長が当時の新兵器、鉄砲を駆使して勝頼に勝利しました。

さて、ここでやっと田峯城が登場します。田峯城の菅沼氏はこの戦いの5年前に徳川方から武田方に寝返っていたので、この戦いでは武田方で戦っていました。敗北した武田軍は散り散りに海岸線とは反対の山間部へ逃れました。その先には、武田軍が進攻の前哨基地として保有している城郭群と、補給路が無傷で残っていました。このとき、武田の大将、勝頼は田峯城の菅沼氏と行動を共にし、田峯城に向かいました。そうしてみると、菅沼氏は勝頼に大いに信頼されていたのでしょう。

ところがここでとんでもないことが起きてしまいます。城に残って守りを固めていたグループは、心の内では徳川方への帰参を希望していて、勝頼と菅沼軍を城に入れなかったのです。彼らは別の城に入り、その後、勝頼は無事諏訪へ逃げ帰っています。

田峯城と菅沼氏は、とんだ内紛で歴史上名を残すことになってしまったのでした。田峯城ではその後、さらなる内紛と惨劇を繰り返しますが、日本史の大きな軸で見れば小さなことでしかありませんでした。そののち武田氏は滅び、田峯城はいつのころか菅沼氏の城でもなくなり、やがて廃城となったのでした。




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