2024年4月22日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その3(ファイナル)

 江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その3(ファイナル)




第2話では、私達が九州の南、鹿児島港に到着するまでを報告しました。すでにお話しした通り、その途中で重要な出会いがありました。鹿児島から九州の西側を北上し、北側を通り抜け、日本海も北上し、北海道の函館までという広い範囲の廻船ルートを持つ浜崎家と出会ったのです。

鹿児島港の浜崎家を保護し、貿易と海上輸送を命じていた薩摩藩は、江戸時代を通して大国に位置づけられていました。北海道にまで浜崎家の廻船が出向いていたのは驚きでしたが、バックに鹿児島藩がついているわけですから、さもありなんとも思います。

ここで一つ専門用語を確認します。この時代の日本海を航行する廻船は「北前船」といい、多くは大坂発、下関経由、北海道着、あるいはその逆でした。日本海は航行しやすい海ではありませんでしたが、多くの商人がこの「北前船」廻船事業に乗り出したのは利益が大きかったからです。

その利益を黙って眺めているような薩摩藩ではなかったのでしょう。薩摩藩は浜崎家を先方として、この事業にも乗り出していたのです。そのことが我々の旅の実現には幸いでした。




さて、鹿児島港を出港した浜崎家の廻船は、長崎港に寄港します。浜崎家は長崎で何の商いをしていたのでしょうか?

長崎港は江戸時代にオランダの交易船の唯一の寄港地として有名でした。しかし、実際の取引は、中国との取扱量がオランダの9倍もありました。薩摩藩は、その中国に海産物や陶磁器(薩摩焼)を輸出していたと思われます。

また、オランダ船の取り扱い品目は、金、銀、銅など以外に樟脳がありました。薩摩藩はこの樟脳をほぼ専売的に取り扱っていました。オランダの東インド会社は香料として自国へ運んだようです。浜崎家の廻船もこのような輸出品の廻船に関わっていたと思われます。

それでは、長崎港と下関港、あるいは日本海方面の「北前船」との関わりは何だったのでしょうか?答えは「昆布」でした。長崎から中国へ大量に輸出された昆布類は、北海道が原産地でした。長崎の商人のグループは、北海道の函館に支店を持ち、その輸送にあたっていたようです。


浜崎家も長崎の商人同様、北海道の産物を長崎港からの輸出品として取り扱うためのルートを日本海に持っていたと思われます。そのルートに乗って、我々は、長崎、下関、佐渡まで移動しました。そして、浜崎家とは佐渡でお別れすることにしました。佐渡で浜崎家の廻船を降りたのは、ここで新たな廻船業者を見つけるためです。

その廻船業者は銭屋と言いました。金沢出身の銭屋は、日本海の「北前船」事業に従事し、江戸、大坂をはじめ全国に34支店を持っていたそうです。我々が銭屋に目をつけたのは、この廻船業者が西回り(北海道から大坂)のみでなく、東回り(北海道から江戸)もルートも持っていたからです。

我々は佐渡で銭屋の廻船に乗船し、北海道まで一気に足を延ばし、函館に到着したのでした。


ここで、北海道の特殊事情を検討する必要が生じました。北海道は江戸時代後期に至っても、先住民が支配する国でした。函館、松前、江差という三都市とその周辺を支配する松前藩の支配地以外に日本人は住んでいなかったのです。

1855年からは、諸外国の侵略に対抗するため、沿岸に入植が始まりましたが、それまでは居住が禁止されていました。したがって、1855年以前は、各地の先住民との商取引のための寄港はありましたが、一時的な行為だったわけです。

さて、函館には銭屋などいくつかの「北前船」廻船業者が拠点を構えていました。一方、多くの「北前船」廻船業者は北海道に拠点を持つまでの勢力はなく、函館、松前、江差へ寄港して、そこで買い付けと、持ち込み品の販売を行い利益を得たのでした。
一部はさらに北の小樽辺りまで出向いて行ったりもしましたが、そのあたりで引き返すのが普通だったのです。

では、我々が達成したいと思っている北海道北端、宗谷岬やその先までの航行を行っていた業者はいなかったのでしょうか?


それこそが、我々が銭屋に目をつけた本当の理由でした。銭屋やその他にも北海道に拠点を置く廻船業者のいくつかは、小樽、利尻という北海道の西側を通り抜け、根室辺りまで出向いていました。

さらにここで、我々の空想の旅が本当に可能であったかを考える上で問題になるのが、廻船業者たちは函館からどちら周りで根室へ行ったかです。

函館が北海道の南端とすれば、根室は北海道東端で、距離からすれば東側を航行した方が短いようです。しかし、商売のために多くの寄港地をめぐるのであれば、小樽、利尻、根室と回った方が多くの港を経由できます。

実は確たる記録を見つけられなかったのですが、このルートが存在したと仮定することにします。
我々の旅は、函館寄港ののち、小樽港、利尻港、根室港と回って、もう一度函館港にもどって、北海道一周を達成しました。

函館に戻ったのは、北海道から江戸方面へ直接移動した廻船の存在がはっきりしなかったからです。仙台港の業者が根室港まで出向いていたらしいので、そこで乗り換えとしてもよかったかもしれませんが、根室港がどんなところだったかはっきりしません。確実な北海道一周の方を選びました。

我々は、函館港から銭屋の東回り廻船で、対岸の青森港へ移動し、仙台港、銚子港、房総半島をぐるっと回って江戸湾に入り、浦賀港に寄港します。そして、江戸の日本橋辺りに停泊し、再び江戸の地を踏むことができました。

この時代に本当にこの冒険を目指した人がいたかどうかは分かりません。我々の旅が、多分にご都合主義だったことは否めませんが、日本一周できることは私達の記述から納得していただけたのではないでしょうか。

旅に要する時間に関しては、江戸から大坂までは一応それなりの信ぴょう性を持った日数で示しましたが、それ以降は不可能でした。日本海の航行は、春から夏が中心で、冬の航行はなかったという記述があります。長崎から北海道に向かうあたりで秋になっていたら、どこかで丸一年足止めを食らっていたのかもしれません。

最後になりますがこの空想の旅で、この時代の日本が、内にこもっていたのではないと分かってうれしく思います。自国周辺の海域とはいえ、縦横で意欲的なトライアルを積み重ねていたからこそ、のちに日本国が海洋大国として名をとどろかすことになったのだと思います。




2024年4月3日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その2

 江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その2




第一話をまとめますと、江戸を出発した我々は、12日後、大坂の港に到着したということになります。ここまでの旅は、一定の成果を出しましたが、ここからの旅はより難しい問題に直面することになりそうです。

問題を整理してみましょう。

日本一周するためには、四国の太平洋側を移動して、九州に向かう必要があります。九州でも、交通網が発達した北側の海域ではなく、南側を通過しながら北上し、日本海方面へ向かう必要があります。

まずは最初の問題をクリアするため、四国の太平洋側を移動できる可能性を探りましょう。大坂から四国はそう距離が離れているわけではありません。第一話でも触れましたが、船による旅行は当時一般的ではありませんでした。自国の船舶を所有する大名が、公務で移動することはあったでしょうが、それ以外はごく少数の例外を除けば、そういうことは行われませんでした。そして、その例外の一つが、大坂と四国との間で行われていました。




この運航は、「金毘羅船」と呼ばれるものでした。江戸後期に、四国の丸亀というところにある「金毘羅宮」という神社が庶民の旅行先として注目されていました。当時の一般庶民は贅沢なことは禁止されていて、観光旅行などはもってのほかでしたが、例外として宗教的なこと、神社への参拝は許可されました。(昔も今も人間というのはただまじめに働くだけでは満足できない生き物なのでしょう。)

当時、伊勢神宮や金比羅宮はそういう目的地として全国的に有名でした。旅行に行けるのは限られた人々で、それも一生に一度きりでした。金比羅宮の側から見ると、全国からそういう人たちがこの神社をめがけて押し寄せたため、引きも切らぬ繁盛ぶりということになりました。

ところで、金比羅宮へ行くには、海を渡って四国に上陸しなければなりませんでした。そこに目をつけた大坂の商人によって、旅行客に宿と船を提供する商売が興りました。金比羅船は、順調に進めば、大坂を出て3日半で四国の丸亀港へ入港しました。実際は順調に進むことはほとんどなく、風待ちで5日とか、もっと長い日数待たされて、怒って船旅をやめる人も多くいたそうです。(そういう人は、最短距離の岡山県まで歩いて行って、そこで小舟で四国へ渡ったようです。)

さて本題ですが、我々の旅にこの金毘羅船が利用できるでしょうか?四国の丸亀港から太平洋側の港へ向かう船があれば活用可能ですが、そういう船はありませんでした。なぜなのかは、当時の大名による支配体制が影響していました。複雑な話なので、章を改めて話を進めましょう。




私達が旅行している江戸時代後期の四国は、下図のように複数の大名によって支配されていました。幕府はそれぞれの大名が仲良くすることを嫌いましたので、大名同士が商取引を拡大したり、船舶を行き来させたりということはできませんでした。大名の国同士で交流がなければ、その間の船舶の行き来も成り立ちませんでした。国境にあった村同士では、たまに行き来があったかもしれません。しかし、私たちが期待するような頻度で、かつそれなりの大きさの船舶の移動は期待できませんでした。



もう一度四国の地図を確認すると、太平洋側一帯を支配していたのは、土佐藩という大国でした。土佐藩は必要な財源を得るため、自国の特産物を大坂へ持ち込んで販売していました。土佐藩の場合は、木材が主な特産物で、そのほかには海産物や米などもあったようです。

そういう特産物は、土佐藩が専売する権利を持っていて、一般の商人が取り扱うことはできませんでした。しかし、土佐藩の武士が商売をしてもうまくいくわけはありません。どの藩でも同じですが、藩が特権を与えた御用商人が特産物の売買を行っていました。

木材を大坂へ持ち込んで販売する商人が、土佐藩の本拠地、高知港に居を構えていました。彼らは自前の廻船を持っていて、それを使って大坂へ頻繁に航行していました。

これが、私達の旅にたった一つの光明を与えてくれました。高知港からの商用ルートは、大坂だけでなく下関へもありました。下関との行き来はそれほど頻繁ではなかったようですが、それはこの際、特別ラッキーだったことにしましょう。


旅の続きはこうです。

私達は大坂で高知港の材木商に話をつけ、高知に戻る廻船(たぶんこれも千石船だったことでしょう)に乗船しました。高知港までの移動時間は、まったく資料が見つからずわかりません。大坂に近い丸亀まで最短で3日半ですから、もっとかかったことでしょう。一方で、大坂から江戸の最短の移動時間の記録は6日でしたから、条件が良ければかなり早く着いたかもしれません。

土佐藩は、藩ができた17世紀初めころから船舶の運航技術を高めることに力を注いでいました。大坂から江戸に向かう廻船は常に最先端の技術を駆使していたでしょうから、それに匹敵する航行が地方領主である土佐藩で行われたかは疑問です。地元密着型の、どの場所はどういう危険があるから・・・という無理はしないタイプの航海が行われたと思います。

こうして我々は、大坂港から高知港へ向かい、高知へ上陸しました。そして同様に、高知港から下関港にある材木商の支店への廻船に乗船し、無事に下関の港に到着しました。四国の西側、九州との間の海域は日向灘といって、航行の難所として有名なところでした。この海域を取り囲むように、拠点となる港がいくつか作られていました。本州の端にある下関港、九州の東岸にある細島港などです。

九州に住んでいる人々から見ると、江戸や大坂に向かう場合、船は必ず利用する交通手段でした。たとえば、九州の大名は、江戸に向かうのに船で移動しましたし、彼らが藩の特産物を大坂の市場に持ち込むのも船でした。

四国の太平洋岸への移動ルートがほとんどなかったのに比べて、下関辺りから九州へ向かうルートは多数存在していたのでした。

厳密に言えば、必ず下関に入港したのち大坂方面を目指したのか、下関によらずに瀬戸内海に入るのか判然としません。しかし、下関によらないルートが主体だとしても、一定の割合は間違いなく下関を経由していたと思います。

ここまでは何の準備もない危険な旅の様相でしたが、ここまで来ればあらかじめ掴んでおいた有力な情報が使えることになりました。九州の鹿児島辺りは、薩摩藩が支配していましたが、そこに藩の御用商人で浜崎という人物がいました。浜崎家は、薩摩藩の貿易と海上輸送を大々的に引き受けていた大富豪でした。浜崎家の支店は全国にあり、少なくとも書物に記載されていた場所としては、大坂、長崎、細島、新潟、佐渡、函館、那覇が確認できました。

このリストに下関はありませんが、新潟、佐渡、函館という北前船ルート上に支店を持っている以上、下関には出入りしていたはずです。というのは、北前船は下関を通過しなければ大坂方面へも、逆方向の函館方面へも行けなかったからです。

こうして我々は、下関で浜崎家の関係者を見つけ、途中に細島港に立ち寄ったかもしれませんが、最終的に鹿児島の港に上陸を果たしました。我々の使える情報はどんどん少なくなっていて、移動に何日かかったのかわかりません。とはいえ、鹿児島までは行き着いたわけです。心強いのは、浜崎家の海運ルートを使って函館まで行けそうだということです。

それではこの先は次回のお楽しみということにしたいと思います。