2021年1月18日

掛川城に関する追加情報

 掛川城に関する追加情報



掛川城天守(3層4階)は、1993年に木造で再建されました。掛川城天守の再建を請負ったのは鹿島建設でした。以下はそのHPに載っている文章です。

「掛川城天守閣は1596年築造。安政の大地震(1854年)により崩壊したため、幕末に描かれた絵図と天守台の遺構をもとに復元されました。嘉永5年(1852)に伊予松山城天守が築かれてより実に140年ぶりの木造城郭建築であり、日本初の木造完全復元の城となります。」 

木造復元天守で有名なのが、愛媛県にある大洲城(4層4階)です。大洲城天守の復元を請負ったのは安藤ハザマでした。以下はそのHPに載っている文章です。

「戦後、木造による天守の本格的な復元は4件目。安藤ハザマはこのうち、大洲城、白石城の2件を担当し、ほかにも全国各地のさまざまな歴史的建造物の保存・修復・復元に実績を重ね、貴重な文化遺産と伝統技術の伝承に力を傾けています。」


天守の再建にあたっての技術的なハードルになっている建築基準法は、第二次大戦後の昭和25年に制定されました。それ以前の木造再建天守に郡上八幡城と伊賀上野城があります。

郡上八幡城(4層5階)のHPによる解説です。 

「優雅な破風をもつ現在の4層5階の天守閣は昭和8年(1933)に大垣城を参考に模擬天守閣として2つの隅櫓と 高塀とともに全国にさきがけて再建されました。 一部の古図に描かれているようなかつての3層の天守閣とは異にしています。」

「現存する木造再建城としては日本最古の城であり、模擬天守とはいえ築城後80余年を経た天守や櫓は、周囲の自然や風景に見事に溶け込んで風格とその歴史を語っています。」

伊賀上野城(3層3階)のHPによる解説です。

「現在の復興天守閣は、当地選出の代議士、川崎克が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守台に建てたものです。昭和7年(1932)に着工し、昭和10年(1935)10月18日に竣工しました。木造三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守の”昭和の城”は、伊賀地域の文化と産業の振興の拠点として「伊賀文化産業城」と名付けられました。」


木造で再建された天守はいくつあるのでしょうか。

戦前では、1933年再建の郡上八幡城と、1935年再建の伊賀上野城で、いずれも史実に基づかない外観の天守です。戦後のものは、小峰白川城(1991)、掛川城(1994)、白石城(1995)、新発田城(2004)、大洲城(2004)の5つのようです。隅櫓などを数えだすとかなりの数になるようです。また現在のトレンドとしては木造での再建が主流のようです。




木造で再建すると昔の姿がよみがえり、オリジナルと遜色ない本物の天守ができるようなイメージを持つかもしれません。戦前のようにただ天守の再建が叶えば、歴史的事実がどうであろうとかまわないというスタンスの再建はもはやないでしょう。ですが、目に見えない、一般には分かりづらい部分はどうなのでしょうか。

典型的なのは、掛川城の再建天守の断面が描かれたこの壁画タイルです。地下の部分は安全のため鉄筋コンクリートの基礎でつくられています。戦国時代に鉄筋コンクリートはありません。再建木造天守は、見た目は昔のままですが、実は最新の建築技術の賜物なのです。戦国時代の建物を現代によみがえらせたわけではないことにも意識をもっておかないと大きな勘違いの元となると思います。




2021年1月16日

掛川城:木造再建天守と現存二ノ丸御殿

 掛川城:木造再建天守と現存二ノ丸御殿



掛川城は、静岡県掛川市にある城郭です。

掛川駅から500メートルほどのところにお城の入口があります。お城の周りは様々な観光施設が建ち並んでいます。美術館や茶室、移築した武家屋敷、明治時代に建てられたレンガ造りの家屋などです。お城の建物としては、再建された天守、現存している二ノ丸御殿などがあります。

この城のちょうど中央部分、二ノ丸と三ノ丸の境目のあたりを道路が横切っていて城域は分断されてしまっています。そのため、三ノ丸から大手門にかけての領域は、城の領域ではないような印象になってしまっています。二ノ丸、天守側もにかけても、道路があるため本丸へ向かう急な階段がつくられています。建物の配置が無理矢理な感じは二ノ丸御殿にも及んでいて、玄関先の空地が狭くなっていて立派な玄関が引き立っていません。天守と二ノ丸御殿があることでお城らしさは感じられるのですが、お城全体がどういう縄張りだったのかは想像しにくくなっています。


木造再建天守

この天守は1993年に木造で再建されました。3層4階の天守を木造で再建するというのは画期的なことでした。というのは、現在の建築基準法はこの規模の木造を認めていません。したがって、特別な努力があったと思われます。オリジナルの天守の外観を確認できるものはなく、古い図面や高知城の天守が参照され現在の姿が選ばれたようです。




本丸エリアに向かう階段を上り、重厚な城門をくぐると入場券の販売所があり、正面に本丸の空地が見えます。本丸の北側に天守のある小高い丘があり、土塀でガードされた階段を上って天守に向かいます。天守のあるエリアは、天守丸と呼ばれた独立した空間だったようです。

天守丸の東側には、脇曲輪という部分と独立した内堀があったようです。現在は、そのどちらも失われてしまっており、天守丸の東側にある二ノ丸へ向かう狭い通路に変化してしまっています。




内部は、玄関から続く通路を入ると階段を数段上がった天井の高い1階部分に至ります。そこは、展示施設になっていて、甲冑、兜、刀、武器などが展示されています。2階部分は広い一室で天守閣内部の広さを感じます。あまり展示物はなく自由に動き回れます。階段の踊り場のような3階を通過して4階は展望室です。城主はこの位置から掛川の町を一望したことでしょう。とてもよい見晴らしです。

木造再建天守は他にもあるのでしょうか。また、オリジナルとは何が違うのでしょうか。こういう疑問に関してもう少し知りたい場合は、ここをクリックして見てください。


現存二ノ丸御殿

二ノ丸には現在、、1861年に建てられた二ノ丸御殿と、二ノ丸美術館、二ノ丸茶室があります。二ノ丸の庭に立ち西側を見上げると天守を見ることができます。城主はこの庭から天守の雄壮を眺めていたのでしょう。




この城のように(明治時代直前とはいえ)江戸時代につくられた御殿が現存している例はほとんどありません。ですから、とても貴重で重要文化財に指定されています。

内部は、西側が表の空間で、大広間や城主の書院、納戸などがあります。一方、東側は城主の日々の暮らしをサポートする裏方のスペースになっています。台所、家来たちの執務室、倉庫などです。一部の空間は失われてしまっていて、その全容はうかがえません。開放感のある西側に比べて、東側は窓が小さく、部屋の造りも裏方然としていて、薄暗く感じます。




施設の概要

掛川城

開場時間 9:00~17:00
入場料 410円(大人1人):小中学生は150円
年中無休 


2021年1月6日

金沢城に関する追加情報

 金沢城に関する追加情報

師団司令部

金沢城は戦国時代の長い間、この地域を実効支配していた宗教団体が支配する要害でした。その要害が攻略されたのち、その場所が城として再整備されました。その後、前田氏が現在の形に整備したのですが、すぐに江戸時代が到来しました。したがって、この城は、戦国時代の城というよりは、江戸時代の城といっていいでしょう。

明治維新の後の金沢城は、軍事施設として用いられました。陸軍は1893年に師団の司令部を城内に設けました。最外周部の昔ながらの石垣は大方残されたままでしたが、内部の堀は埋め立てられ、歴史的建造物は取り壊されました。そのため、内郭のレイアウトは著しく改変されてしまいました。

第二次大戦が終わると、陸軍は完全に解体され、改変の状況が分かる資料の多くは失われました。主を失った金沢城は、金沢大学のキャンパスとして利用されました。陸軍時代の建造物が大学の教室に転用されたようです。

そして1995年になって、金沢大学が移転すると、再整備されるチャンスやってきました。そうはいっても、無残に取り壊された内部を再現するのは至難の業でした。金沢城に現存する歴史的遺構は、石川門とその周辺の櫓と点在する小規模な建物だけでした。

現在は、2001年に再建された五十間長屋という巨大な櫓が新しい金沢城のシンボルとなっています。2010年と2015年にも堀や櫓を再建して、かつての姿に近づけようとしています。




妙心寺に関する追加情報

 妙心寺に関する追加情報

元々は、花園上皇(1297-1348)の御殿があったところを利用して禅寺に改変したようです。(花園上皇は、1308年に天皇に即位、1318年に譲位して上皇になっています。)

当時の京都の禅寺には、室町幕府に守られ発展したいわゆる「官寺」と、それを受け入れなかった一派があったといわれています。妙心寺は、室町幕府を受け入れなかった方のグループの代表格でした。

この妙心寺は、天龍寺のような官寺とは、政治的には与党対野党のような関係にあったと思われます。建立当時の両派の立場はまだ互角の勢力だったのですが、後醍醐天皇の急死ののちは、室町幕府側が力を伸ばし対抗する妙心寺の勢力は衰退していきます。

そういう政治情勢の中で、14世紀の後半になると3代将軍・足利義満の弾圧を受け、寺院没収の憂き目にあいます。

1430年ごろ妙心寺は再興されますが、そののち起こった応仁の乱で伽藍が焼失し、また暗い時代が逆もどりしました。1510年ごろから戦国武将の援助を受け、伽藍の拡張と、塔頭寺院の集積が始まりました。

残存する主要な建造物の建設時期を確認すると、三門:1599年建立、勅使門:1610年建立、法堂:1656年建立、大方丈:1654年建立です。安土桃山末期から江戸時代初期にかけて、当時の武家勢力の援助で現在の姿に復活を遂げたのでした。

妙心寺は、妙心寺派大本山として、修行の実践や信者の安寧に力を入れているようです。室町幕府との対立関係については、妙心寺のパンフレットの中ではあえて触れられていません。そういうこだわりを捨てることが禅の神髄なのかもしてません。




天龍寺に関する追加情報

天龍寺に関する追加情報

五山第一・南禅寺

室町幕府は国家事業としていくつもの寺院を建立しましたが、天龍寺は、そのスタートとなった記念碑的な寺院でした。

室町幕府の行った事業は、鎌倉幕府のやったことを踏襲したものでした。鎌倉幕府は中国から輸入された「禅宗」という新しいその思想に強く傾倒し、多くの寺院を建立しました。室町幕府もそれに倣ったのです。多くの禅宗寺院を建立し、その高僧を政治顧問の立場で待遇しました。天龍寺の創建を発案した夢窓疎石も、禅宗の高僧でした。

京都にある禅宗寺院というと、「京都五山」という格付けをすぐに思い浮かべます。この制度は、室町幕府がつくったのかと思っていましたが違っていたようです。「禅宗の歴史」という本の記述によりますと、京都五山を最初につくったのは後醍醐天皇だったようです。

五山制度についてももう少し確認してみます。

まず、「五山」というのは、元は中国の「南宋」で作り出された制度でした。「五山・十刹・諸山」という「官寺」の制度で、5つの五山が最高位で、次に10の十刹があり、その下が35の諸山という順位がありました。官が認めた公式の寺ですから、順位がついて下の方に位置しても、そうでない寺と比べれば格が違うという訳です。

それが日本に伝わって、同様の制度が取り入れられたのです。鎌倉五山は当時の文献にもその言葉が存在するので、正式な名称ではあるのですが、どの程度、制度として成立していたのかははっきりしないそうです。その後、時代が変わって、後醍醐天皇が京都五山を作ったようです。

室町幕府が成立した結果、幕府が五山制度の選定に主導権を持つようになり、さらにそれを管理監督する制度と機構が整えられたのです。

同時期に、前述の通り天龍寺が創建されます。その結果、「五山第一建長・南禅、第二円覚・天龍、第三寿福、第四建仁、第五東福、準五山浄智」という評定がなされたのでした。すでにこの時、五山なのに7寺が選ばれ、南宋のような五山は5寺という原則が崩れています。

この日本的な選定基準は、十刹、諸山も同様で、そういう名称の格付けを得た寺院は全国で300にも上るということです。また、五山に数えられる寺院は、時代の権力者との関係で変化しましたが、天龍寺は上位に位置し続けたようです。

参考文献:「禅宗の歴史」 今枝 愛真/著 吉川弘文館