2020年12月30日

縦目楼に関する追加情報

 縦目楼に関する追加情報

完成時の姿 建設会社のホームページより 

縦目楼の中にある茶室たち(続き) 

縦目楼は元々まったく別々の建物を一つにまとめたので、外観としてはかなりハイブリットな印象です。2つをくっつけてしまったのですから、外観は再現されたものではないと思います。しかし、内部は忠実に再現されています。用いられた木材も、繰り返しになりますが、監修に入った茶人の見立てだと思いますが、こだわりが実感できます。

滝本坊の方は小堀遠州が、同時代の松花堂昭乗(しょうじょう)という茶人僧侶のためにつくった空間を再現しています。小堀遠州が滝本坊につくった茶室というのもあって、「閑雲軒(かんうんけん)」という名前がつけられています。 京都府八幡市に「松花堂庭園」という所があって、その中に古い図面に基いて再現された閑雲軒があるようです。

さて、縦目楼の滝本坊ですが、パンフレットには「書院」と書かれていて、「茶室」と書かれていません。茶室を再現したのか、閑雲軒ではない別の空間を再現したのかよくわかりませんでした。


正面に「向峯居」

有名な鎖の間に入るためにはお茶会に参加しないといけませんから、少し悩みましたが参加させてもらうことにしました。色々な観光地でお抹茶とお菓子をいただいてきましたが、今回が最高です。鎖の間という本物の空間で、着物姿のお茶の先生が目の前でお抹茶を立ててくれます。先生の前にはお湯を満たした茶釜が置かれ、本物の茶道具が並んでいます。座らせていただいた場所から正面の広い窓越しに富士山が見えます。これだけは、伏見奉行屋敷でお茶を点てた小堀遠州でも味わえなかった贅沢だと思います。静岡県島田市という場所にこの茶室があるからこそ味わえる至福の一刻です。なんという贅沢でしょう。


「友賢庵」

小堀遠州の茶会に招かれた客とは逆の動きになりますが、友賢庵へ移動します。この狭い茶室の一角には狭い「にじり口」があります。小堀遠州は客をまずこの小さな茶室に招いて、その後「鎖の間」へ案内したのです。その障子戸を引いて外を見ることはできませんが、その外には客を案内する路地があり、その路地の先には待合があります。


「友賢庵」のにじり口

この茶室では、実際の茶事の集まりも行われているとのことです。茶事の場合、客はこの縦目楼の手前に広がる日本庭園の脇につくられた路地を通って、まず友賢庵に入るのです。路地は日本庭園をかすめるようにかなり長い距離続いています。通常の観光客を避ける位置にあり、多くの観光客はこの路地の存在に気づかないままかもしれません。少なくともパンフレットではそういうところまで触れていません。


別棟の待合

せっかくだからいったん外へ出た後、路地の先へも行ってみました。庭園と外部を区画する背の低い土塀の向こう側には、10を超える意匠をこらした橋が架けられた空間がありました。茶事に招かれた客はこの橋を渡って、まず小振りの門に至ります。その門をくぐると、3席ほどの待合が在って、そこで客が集合するのでしょう。それから路地を堪能しながら、友賢庵のにじり口まで進み、そこから茶室に入るのです。


橋を渡り待合へ向かう

客は友賢庵での茶事を終えると、廊下を通って鎖の間に入り別の趣向の茶事を堪能するわけです。書物から得た情報ですが、場所を変えたりすることで、茶事は延々4時間も行われたようです。小堀遠州のころは、茶事と言えば第一級の娯楽でしたからそれにいくら時間をかけても気にしなかったのかもしれません。また、伏見奉行という役職上、茶事に招いた客の多くは、純粋に茶事だけでなく、多分に政治的な関係者ということも多かったでしょう。そういう政治的な密談の時間も長くとられたのかもしれません。

参考文献:「茶人・小堀遠州の正体」 矢部良明/著 角川選書
        「小堀遠州綺麗さびの茶会」 深谷信子/著 大修館書店




田峯城に関する追加情報

田峯城に関する追加情報


完成時の姿 建設会社のホームページより


田峯城の現在の姿(続き)

田峯城のある愛知県設楽町は太平洋の海岸線から約40キロ北に向かった山奥にあります。この辺りの海岸線に面した平地はそれほど広くなく、すぐに山間になってしまいます。この辺りの山間部は、道がどこにつながっているのか、その土地の住民でないと分からないと思います。戦国時代も同様で、土地勘を持っていない限り、どこに集落があり、どこに城が潜んでいるのか分からないエリアでした。

この城は、この辺りの盆地を勢力圏とした豪族の菅沼氏がつくったものです。戦国時代、信州方面から、徳川家康が支配する岡崎方面へ向かうルートがいくつかこの辺りを通っていました。織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いが、この付近の長篠城を舞台に起こったのも、このルートがあったからだと思います。そのルートのひとつに作手(さくで)街道というのがあって、この道は田峯城の直下を通ります。菅沼氏が城の立地を決めるにあたり、この街道の存在を重要視したのは間違いないと思います。

この城のある盆地は木の生い茂る山々に囲まれており、ドローンでもない限り見つけ出すのは至難の業です。設楽町あたりから、寒狭川(かんさがわ)という川が太平洋へ向かって流れ出ていますが、流れに沿って主要幹線道路も走っています。現在、この城へ向かうには、その主要幹線道路で最寄りの間道まで行き、そこから山を登る狭い道路に入ります。主要幹線道路から間道へ入る地点までは、ナビさえあればたどり着けます。しかし、その先は少し苦労します。登り口から城の入口までは約500メートルですが、くねくね曲がった道を登るのに、資料によれば徒歩で30分かかります。多分この道が旧作手街道と同じような位置にあるのだと思います。この城は狭い道を登って行った頂点にあり、下からではその姿を確認することができません。



盆地に入ってしまうと、道の傾斜は緩くなり運転しやすくなります。しばらく農地とまばらにある住宅を通り過ぎた先の茶畑のようなところの先にこの城はありました。城域は雛壇上にいくつもの平らな部分が連続しているだけなので、どこまでが城なのか見分けがつきません。山城を実測してまとめた書物があるのですが、その記述によれば、長手方向で300メートル、短手方向で200メートルくらいあるようです。中央の最頂部の本丸が最も広い平地で、50メートル×30メートルの楕円形の形状をしているようです。

この最頂部の平地を利用して、武士の館(資料館)がつくられています。この資料館は、一見歴史的建築物のように見えますが、つくられたのは1994年ですから、築25年程度です。時を重ねたことで城館の色合いも雰囲気を醸し出してはいるのですが、本物ではないことも事実です。

参考文献:「愛知の山城ベスト50を歩く」 愛知中世城郭研究会/編 サンライズ出版
      「信濃をめぐる境目の山城と館」 宮坂 武男/著 戎光祥出版



「匠明」に書かれた武士の館(続き)

織田信長や徳川家康といった有名な戦国大名が数多く登場する戦国時代末期は、建物を建てる大工にとってはとてもいそがしい時代でした。戦国大名は戦いを繰り返していましたから、焼け落ちた城や屋敷は建て直したり、新しくつくったりしなければなりません。財を蓄え、力をつけた戦国大名はこの時代次から次へと新しい建物を建てました。この時代は一大建築ブームに沸いていたのです。

そういう時代の中で、大工の棟梁がいかに天才的な構想力を持っていたとしても、力におごった戦国大名の要求を満たすのは至難の業でした。大工の棟梁にしてみれば、受注してから考えるのでは間に合いませんから、あらかじめそのための準備がしてあったのです。その準備のうちの1つが、秘伝書「匠明」という訳です。「匠明」には神社、寺院、屋敷などその時代に建てられた建物の基本となる図面がすべて網羅されていました。

「匠明」の平面図

武士の館の図面も基本図面の1つでした。その万能平面図には、戦国大名が館を建てる場合に期待するであろう部屋が網羅されていました。そして、もっと大きな部屋がほしいだとか、部屋の数を増やしたいだとかの要求が出れば、その部分だけを付け足せばよかったのです。

上図をもとに研究者が再現
この秘伝書のもう一つの意味合いは、建物をつくるときのプロポーションの美しさをどう実現するかの秘伝でもありました。平面図の組み合わせを基本として、できあがった建物のプロポーションが美しくなるような基本的な決まりごとがすべて書かれていたのです。ですから大工の棟梁は、この本に書かれたルールを踏襲しながら計画を練り、微調整をするだけで失敗のない建物をつくることができたのです。


パンフレットのレイアウト図
この時代、設計図は「木割」といいましたが、「木割(きわり)」は「美しいプロポーションとは何か」を示す言葉でもありました。柱の寸法はいくつ、畳の組み合わせはいくつ、そういうルールを守れば、「基本の美しさ」が達成できるというわけです。このルールは、屋根のプロポーションや、天井までの高さなどすべてに渡るので、万能の秘伝書という訳です。似たものを探すと、西洋の美の基準のひとつに「黄金比」というのがありますが、そのような意味合いのものだったと思います。


研究者による立面図

この建物は、築25年を経て、建具が外れてしまったり、こけら葺きの屋根の劣化が気になり始めています。どのような保全整備を考えているのかも気になるところです。

参考文献:「匠明」 平内 政信/著 伊藤 要太郎/校訂 鹿島出版会
      「木割の話」 河田 克博/著 インターネットより




織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との戦い(続き)

武田信玄というカリスマ的な戦国大名がもっと長く生きていれば、彼が織田信長を倒していたかもしれません。しかし、武田信玄は病死してしまいます。その結果、織田信長はその息子、武田勝頼と戦うこととなりました。

武田勝頼は父親の遺志を継いで、しゃにむに京都へ向かいます。勝頼は強力な騎馬軍団を武器に、長篠城付近で信長と対峙すこととなります。これが「長篠の戦い」です。そして、信長が当時の新兵器、鉄砲を駆使して勝頼に勝利しました。

さて、ここでやっと田峯城が登場します。田峯城の菅沼氏はこの戦いの5年前に徳川方から武田方に寝返っていたので、この戦いでは武田方で戦っていました。敗北した武田軍は散り散りに海岸線とは反対の山間部へ逃れました。その先には、武田軍が進攻の前哨基地として保有している城郭群と、補給路が無傷で残っていました。このとき、武田の大将、勝頼は田峯城の菅沼氏と行動を共にし、田峯城に向かいました。そうしてみると、菅沼氏は勝頼に大いに信頼されていたのでしょう。

ところがここでとんでもないことが起きてしまいます。城に残って守りを固めていたグループは、心の内では徳川方への帰参を希望していて、勝頼と菅沼軍を城に入れなかったのです。彼らは別の城に入り、その後、勝頼は無事諏訪へ逃げ帰っています。

田峯城と菅沼氏は、とんだ内紛で歴史上名を残すことになってしまったのでした。田峯城ではその後、さらなる内紛と惨劇を繰り返しますが、日本史の大きな軸で見れば小さなことでしかありませんでした。そののち武田氏は滅び、田峯城はいつのころか菅沼氏の城でもなくなり、やがて廃城となったのでした。




2020年12月10日

金剛輪寺:庭園にはり出した異形の茶室がある寺院

 金剛輪寺:庭園にはみ出した異形の茶室がある寺院



今回は、滋賀県愛知郡愛荘町にある金剛輪寺を訪ねました。

金剛輪寺は「湖東三山」の1つとして有名です。まず、「湖東三山」について確認しておきます。


 龍応山西明寺 (りゅうおうざん・さいみょうじ)

 松峯山金剛輪寺 (しょうほうざん・こんごうりんじ)

 釈迦山百済寺 (しゃかさん・ひゃくさいじ)


湖東三山は室町時代(約5~600年前)、敏満寺、大覚寺と合わせて湖東五山と呼ばれていたのが、のちに2寺が衰退し、3つの寺が生き残ったので湖東三山という名称が定着したという解説がありました。しかしどうやら、1965年ころの国内観光ブームのころ、この地方のバス会社が主要な3つの寺院を湖東三山と名付けたのが始まりのようです。


松峯山金剛輪寺

創建は約1300年前で、全盛期の規模についての記述は見つけられませんでした。金剛輪寺は密教寺院で、山奥にこもって独自の信仰に傾倒する場所なので、他の2寺と比べると寺域は狭かったのではないかと思います。しかし現在の状態で比較すると、本堂は入口から500メートル近く奥まった位置にあり、現在ではその広さは一番大きいように思います。




入口からしばらくは平坦な石畳が続きますが、100メートルも進むと石段の参道になり、いつまでたっても本堂らしきものは見当たりません。脚力が心配な人には本堂の近くまで自動車で登れるようになっています。

やっとのことでたどり着いた本堂は約730年前に建設されたもので、国宝です。三重塔は約650年前のもので、大きく破損していたものを50年前に補修しており重要文化財です。本堂の中に安置されている仏像は撮影禁止ですが、参拝者は近くまで行って見学させてもらえます。間近で仏像を見る機会はそうそうないので感動します。本堂の中には案内人がいて分かりやすく歴史や見どころを教えてもらえます。




金剛輪寺本堂 (解説より)

内陣須弥壇金具に弘安11年(1288)の銘があり、この時期に完成したと推測されている。鎌倉時代にめざましく発展した密教寺院の大規模な本堂である。桁行七間、梁間七間、入母屋造りで、妻飾りは「いのこさす」を組み、内外に長押を廻し、正面には蔀戸を入れるなど、全体は伝統的な和様建築である。内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の「拳鼻(こぶしばな)」がついている。密教本堂の内部は通常、外陣と内陣に区別されているが、この本堂もその通例に倣っている。外陣は、大虹梁(こうりょう)を受ける太い列柱と、格子戸、菱欄間の内外陣境結界とで構成される広い礼拝空間となっている。内陣は、天井を化粧天井とし荘厳な須弥壇を構える。流麗な曲線の檜皮葺大屋根に包含され、堂々たる偉容は近江中世本堂の圧巻ということができる。


僧坊「明寿院」

金剛輪寺と言えば、国宝の本堂と、重要文化財の三重塔がとても有名です。この寺を訪れるのであれば、それを外すわけにはいけませんが、僧坊「明寿院」の庭園も負けず劣らず見ごたえがあります。




この僧坊と庭園は、平坦な参道が折れ曲がる比較的入口から近い位置にあります。あまり宣伝されていないのは、1977年に焼失、再建された新しい建物だからでしょう。僧坊は縁側までは入ることはできますが、さらに内部に入ることはできません。

庭園は3つのエリアに分かれていて、入口に近い方は桃山時代の作庭、中央部は江戸時代初期、最深部は江戸時代末期の作庭と説明されています。




中央部の江戸時代初期の庭だと説明されているところに、茶室があります。庭と一体化していて、この茶室のための庭というより、庭に趣を添えるために追加されたのではないかと思ってしまいます。この茶室「水雲閣」は、天保年代(1830-44)に建立されたものです。茶室に合わせて作庭されたのではないかと思えるレイアウトなのですが、最深部の作庭時に修景されたのでしょう。


施設の概要

松峯山金剛輪寺

拝観料 600円
拝観時間 8:30~17:00





今回は、滋賀県愛知郡愛荘町にある金剛輪寺を訪ねました。金剛輪寺は「湖東三山」の1つとして有名です。



まず、「湖東三山」について確認しておきます。

龍応山西明寺 (りゅうおうざん・さいみょうじ)
松峯山金剛輪寺 (しょうほうざん・こんごうりんじ)
釈迦山百済寺 (しゃかさん・ひゃくさいじ)

ある解説によれば、「湖東三山」は室町時代(約5~600年前)、もう2寺、敏満寺、大覚寺と合わせて湖東五山と呼ばれていたのが、のちに2寺が衰退し、3つの寺が生き残ったので湖東三山という名称が定着したという解説がどこかでもらった資料に書かれていました。しかし、そういうことが書かれた資料は一つだけで、「湖東三山」、「湖東五山」という名称が本当に古くからあったのか疑問を持ちました。どうやら、1965年ころの国内観光ブームで、この地方のバス会社が、主要な観光地の3つの寺院を湖東三山と名付けたのが、この名称の始まりのようです。


松峯山金剛輪寺

創建は約1300年前で、全盛期の規模についての記述は見つけられませんでした。金剛輪寺は密教寺院で、山奥にこもって独自の信仰に傾倒する場所なので、他の2寺と比べると規模は小さかったのではと思います。しかし、現在の状態で比較すると、本堂は入口から500メートルも奥まった位置にあり、寺領の広さは一番大きいように思います。

入口からしばらくは平坦な石畳が続きますが、100メートルも進むとかなり急こう配の石段の参道になり、いつまでたっても本堂らしきものは見当たりません。いつたどり着けるのか不安になります。それを見越してか、脚力が心配な人には本堂の近くまで自動車で登れるようになっています。

やっとのことでたどり着いた本堂は約730年前に建設されたもので、国宝です。三重塔は約650年前のものですが、大きく破損していたものを50年前に補修しており、重要文化財です。

本堂の中に安置されている仏像は撮影禁止ですが、参拝者は近くまで行って見学させてもらえます。間近で仏像を見る機会はそうそうないので感動します。本堂の中には案内人がいて、この建物や仏像の歴史や見どころを分かりやすく教えてもらえます。


金剛輪寺本堂 (解説より)

内陣須弥壇金具に弘安11年(1288)の銘があり、この時期に完成したと推測されています。鎌倉時代にめざましく発展した密教寺院の大規模な本堂です。桁行七間、梁間七間、入母屋造りで、妻飾りは「いのこさす」を組み、内外に長押を廻し、正面には蔀戸を入れるなど、全体は伝統的な和様建築です。

内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の「拳鼻(こぶしばな)」がついています。密教本堂の内部は通常、外陣と内陣に区別されていますが、この本堂もその通例に倣っています。外陣は、大虹梁(こうりょう)を受ける太い列柱と、格子戸、菱欄間の内外陣境結界とで構成される広い礼拝空間となっています。内陣は、天井を化粧天井とし荘厳な須弥壇を構えています。ともに流麗な曲線の檜皮葺大屋根に包含され、堂々たる偉容は近江中世本堂の圧巻ということができます。


僧坊「明寿院」

僧坊「明寿院」は、平坦な参道が折れ曲がる位置にあります。あまり宣伝されていないのは、1977年に焼失、再建された新しい建物だからです。縁側までは登れますが、内部に入ることはできません。

湖東三山の3寺院の僧坊はそれぞれ趣のある庭園を伴っていますが、この「明寿院庭園」はそれだけを目当てに訪問してもいいと思える素晴らしさです。庭園は3つのエリアに分かれていて、入口に近い方は桃山時代の作庭、中央部は江戸時代初期、最深部は江戸時代末期の作庭と説明されています。




中央部の江戸時代初期の庭だと説明されているところに、茶室があります。庭と一体化していて、この茶室のための庭というより、庭に趣を添えるためにつくったのではないかと思ってしまいます。茶室「水雲閣」は、天保年代(1830-44)に建立されたものです。歴史的に見れば、茶室は最終段階で追加されたものということになりますから、江戸時代末期の最深部の作庭時に茶室周りも修景されたのでしょう。



拝観料 600円
拝観時間 8:30~17:00



2020年11月22日

長谷川家住宅と小津家住宅:松阪にある豪商の住まい

 長谷川家住宅と小津家住宅:松阪にある豪商の住まい



「長谷川家住宅」と「小津家住宅」は、三重県松阪市にある江戸時代に活躍した商人の住まいです。

江戸時代の早いころから、商才のある松阪商人が松阪の特産物の木綿を大消費地「江戸」へ持ち込んで膨大な利益を上げました。その結果、江戸時代の松阪にはその大商人の屋敷が数多く存在していました。


長谷川家住宅

著名な松阪商家の1つ、長谷川家の創業は1675年で、松阪商人の中では最も早く江戸へ進出した木綿問屋のひとつでした。最盛期には江戸で5店舗を経営、従業員は120人余だったとのことです。

彼らの商いのスタイルは、主人一族は松阪に住み、出店を江戸、大阪、京都において、従業員に店の経営をゆだねるやり方でした。具体的には松阪の農家の次男、三男の中から適性のありそうな子を選んで従業員に採用し、江戸、大阪、京都の店舗へ送り込みました。彼らがもし不正を働いたら、実家の一族がひどい目に合うぞというような抑止力になっていたようです。商いの重要な決定は主人が松阪から指示を出し、グループ商店として繁栄し続けました。




松阪に住む主人一族は、もうけを土地と屋敷につぎ込み、その住まいを年々拡大していきました。長谷川家の記録によれば、元は奥行の細長い商家だったものを、儲けるたびに土地を買い増していったようです。次々に増改築を続け、現在の広大な土地を有するようになったのです。

長谷川一族は、支配者である武士の御用を承り、地域社会でも重要な地位を築きました。また、膨大な資産を背景に、国文学、茶の湯、俳諧などのパトロンとなりました。

この屋敷は、松阪の街の中央部、行政の中心施設「勢州奉行所」のすぐ南にありました。江戸時代、この場所は松阪の街を通過する「伊勢街道」(伊勢神宮へ向かう当時の主要街道)の近くで、商家がこの地に集積していました。




現存する主屋は部屋数30余、重要な商品などを保管する蔵は5つ残っています。建設されたのは、1600年代後半から、1900年代初めにかけてで、長期間をかけて増改築を繰り返しています。その規模は、現存する江戸時代からの商家としてはベストテンに入る大きさで、国の重要文化財です。




明治時代に入ると廃止された奉行所の土地を買収して敷地を一挙に倍増させました。封建時代が終わりを迎えたころの長谷川家は、そういう恐ろしいまでの財力を有していたのです。元奉行所があった場所には、広い日本庭園と来客用の座敷と茶室があります。

数年前まで長谷川家住宅は非公開だったようですが、昨今の観光ブームで整備が行われ鑑賞できるようになったようです。主屋からいうと、見学できるところは限られますが、主屋は主人の居間や、貴賓を迎えるための表座敷などを見ることができます。5つの蔵の内、1つは小規模な展示施設になっていて見学することができますが、残りは未公開です。




日本庭園を望む来客用の座敷と茶室も非公開で、外観を見ることができるだけです。主屋の周りの小ぶりの庭園を通って拡張された敷地に入ることができます。主屋の庭園は、蔵や建物に囲まれた狭い空間で、つつましく商いに精を出したであろう当時をしのばせます。新しい日本庭園は不相応に広大です。

施設の概要

長谷川家住宅

開場時間 9:00~17:00
入場料 320円(大人1人):6~18歳は160円
休み 月曜日と年末年始


小津家住宅

長谷川家住宅が公開されるまでは、小津家住宅が「松阪商人の館」として先行して整備され公開されていました。小津家の扱い商品は特産品の木綿ではなく、紙問屋でしたが、江戸で大儲けして全国の豪商の番付上位の大商人でした。現存する主屋は1800年代初頭までのいつか分からない時に建設されました。敷地の規模は全盛期の三分の一ほどで、蔵も8つあったようですが、現存しているのは2つだけです。



現存する主屋は街道からはそれほど巨大に見えませんが、内部に入ると高い天井に圧倒されます。
また、店の奥には米を炊く釜がいくつも並んだ広い台所があります。この台所で炊いた米でお伊勢参りの旅人に無償の握り飯をつくって配ったとのことです。




施設の概要

小津家住宅

開場時間 9:00~17:00
入場料 160円(大人1人):6~18歳は80円
休み 月曜日と年末年始



 

2020年11月15日

越前大野城:北陸にある天空の城

 越前大野城:北陸にある天空の城



「越前大野城」は福井県大野市にある城址公園です。

この城は、11月ごろのある条件下で、霧の中に天守のあるエリアだけが浮き出て見える天空の城として有名です。天空の城と呼ばれているので、山城ではないかと思っていましたが、城郭の分類でいえば平山城です。城の前には城下町がつくられ、現在の大野市の中核をなしています。

この城は金森長近という武将が1575年ごろに築城を始めた城です。同じころに織田信長の安土城がつくられています。長近は信長の家臣でしたから、この城は安土城のアイデアを踏襲したのではないでしょうか。

信長のつくった安土城はそれまで主流だった山城スタイルを、平山城スタイルに変革しました。信長のつくった城ですら、安土城より前の岐阜城や小牧城では、山城スタイルの城でした。しかし、たぶん山城に逃げ込むような戦い方では、大軍で攻め込む敵に対しては無力であることを悟ったのだと思います。城の中心部は丘の頂点に設けるにしても、周囲を堀と石垣で囲んで、万が一の時にはその中に大軍が籠城できる平山城という空間をつくり出したのでした。




この越前大野城の城づくりはどうだったのでしょうか。

城山に囲まれた東向きの平地に御殿のある二ノ丸が配置され、それを囲んで三ノ丸、さらに外曲輪が取り囲んでいました。したがって、中心の御殿は三重にガードされ、後ろ側は堅固な城山に守られていました。さらに三ノ丸と外曲輪の外周には塀と堀が存在していたようですが、この塀や堀を長近がつくったのかは不明です。



見方を変えると、この城は御殿の防衛に主眼を置いているともいえます。
御殿を厳重に防御し、それでも守り切れなかったら天守閣のある裏山へ移るという、山城の防御メソッドの延長とも取れそうです。


越前大野城の歴史

この城がこの地につくられたのは、この地を治めていた朝倉氏が、信長に滅ぼされた後、政治的な空白がもたらされたからでした。朝倉氏を滅ぼした信長が長近という家臣をこの地の支配者にすえたのかと思っていましたが、事情は少し違いました。信長は朝倉氏を滅ぼした後、その旧臣の多くを許し、彼らを家臣として召し抱えてこの地を統治させたのでした。




ところが、一年もしないうちに内紛で旧臣同士が戦い、お互いを殺しあった結果、あろうことか宗教勢力の支配する国と化してしまったのです。信長はその結果に怒り、改めて越前に侵攻し、朝倉氏の旧臣勢力と宗教勢力を壊滅させました。この2度目の侵攻作戦の時、長近は美濃から越前に向かい、越前と美濃の間の大野を侵略しました。そしてその功績を認められて大野の支配者となったのでした。

長近は、この地を約10年間支配したのち、次の権力者である豊臣秀吉の命令で飛騨の国へ移りました。そののち、多くの大名がこの地の支配者となりましたが、それ以降だれがどのような工事を行ったかというような話はほとんど記録されていません。その後この城は、越前の中心である福井城の周囲を守る城の一つとして、静かな脇役のまま明治時代を迎えたのでした。



この城が天空の城に変化するのは11月ごろの明け方から午前9時ごろで、大野の盆地に霧が発生するタイミングのみです。
オーロラを見に北欧の国を訪ねたとしても、オーロラに出会えるチャンスがほとんどないように、城の雲海に出会うチャンスも幻のようなものかもしれません。


施設の情報

越前大野城

開場時間 9:00~17:00 (10月・11月は、16:00まで)
入場料 200円(大人1人):中学生以下は無料
休み 12/1~3/31(冬の間は閉館です)



2020年10月20日

臨春閣:池に持ち出して佇む武士の邸宅

臨春閣:池に持ち出して佇む武士の邸宅 




臨春閣がある「三渓園」は神奈川県横浜市にある風景式庭園で、この庭園は、明治時代の実業家、原三渓がつくりあげたものです。その広大な敷地には17棟の歴史的建造物が、風景と調和する形で移築されています。

その中で、もっとも有名な建物が「臨春閣」という数寄屋造りの武家屋敷で、池を中心に3棟の建物が雁行状に配置されています。

この建物は、元々は大阪にあって、大阪の豪商が所有していました。歴史的に価値のある建物の保全に熱心な原三渓が、その建物を購入しこの地に移築したのでした。それが元々は誰の手で造られたのかは明らかになっていません。

今のところ、紀州藩の別荘をもらい受けた武家から豪商の手に渡ったということになっています。この建物には、豊臣秀吉が伏見につくった御殿の一部分だったという逸話もあります。そういう話が出てくるのは、元の所有者が大阪の豪商だったとはいえ、個人の力でつくり上げるにはあまりにも優美な建物だからだと思います。




三渓園が明治時代につくられた時には、一般に公開する目的の「外苑」と、庭の所有者が家族で楽しむための「内苑」に分かれていました。

そして臨春閣は内苑側に移築されています。いやむしろ、この臨春閣を演出するために内苑が設計されたと言えるほど風景にマッチしています。

現在は外苑と内苑のどちらも一般に公開されていますが、内苑の建築物はプライベートで使用されることも多いようです。訪問した時も一部分はお茶会の会場となっていて見学できませんでした。




内苑の入口には京都から移築してきた「御門」という大きな門があります。入ってすぐの場所は、路地のような空間で、足元は敷石が敷かれています。右手に茶室の白雲邸を見ながら路地を進んでいくと、臨春閣の入口が見えます。

左手の小道を進むと、臨春閣の前面に広がる大きな池越しに建物全体を見渡せる広場があります。そこから望む臨春閣はまさに大名の住まいといっても言い過ぎではない優雅さです。

この建物を特に優雅に見せているのは、建物のギリギリ際まで全面の池が迫っていて、池の上にはり出したようにつくられている点ではないでしょうか。建物が庭と一体化しているのです。




多くの研究者が大阪にあったころの建物と横浜へ移築されてからの建物との違いを研究しています。その研究によると、雁行した3つの建物の順番が、移築に際して入れ替えられているそうです。

現在建っている建物は、大阪時代には一番奥にあった部分を中心に持っていき、右手前だった部分を最も奥の左側へ配置し直しています。その際に、奥へ移動させた第3屋は180度回転させて裏だったところを表にもっていき、中央部と奥の第3屋との接合部は付加されています。

この建物は表側の優雅な美しさに比べて、裏側は実はそれほどでもありません。この建物と裏山との間は狭い路地になっていまが、この路地は、一番奥の第3屋と中央部分の第2屋の繋ぎ目のあたりまでは入っていけます。裏側から見ると臨春閣は普通の民家のようで、外壁は置き石の上にのっかっているだけです。こちら側を見る限り、武家屋敷だったという説は疑いたくなります。

この三渓園は臨春閣にだけ注目するのではなく、他の建物にも注目すべきです。広大な敷地にたった17棟の建物が景観にマッチして佇んでいます。その光景は何とも言えず心に感動を覚えます。


施設の概要

臨春閣

開場時間 9:00~17:00
三渓園への入場料 700円(大人1人):200円(小・中学生1人)
休み 年末(12/29~31)

 


2020年10月9日

松本城:黒い天守が水面に輝く城

 松本城:黒い天守が水面に輝く城





松本城は、長野県松本市にあります。

この城は残念ながら城というエリアは維持しておらず、美しい天守とその周辺の本丸が存在しているに過ぎません。

天守のある本丸は、周囲を内堀が囲み、他から隔離された構成となっていました。かつてはその外側に、コの字型の二ノ丸が本丸の南側をカバーする形で取り囲み、その外側も内堀が他とのつながりを遮断していました。ここが城の中核部分で、「内曲輪」と呼ばれていたようです。

その外側に、この内曲輪すべてを取り囲む広大な三ノ丸が存在し、それを取り囲むように広い外堀が四周に存在していました。かつての内曲輪の範囲は広いところで約300メートル、狭いところで約200メートルの長方形でした。三ノ丸と呼ばれたエリアは、広いところで約600メートル、狭いところで約500メートル。これが本来の松本城で、広大な城域を有する平城だったわけです。




豊臣秀吉の時代、徳川家康の関東への移封にともなって石川数正が松本城主となり、天守の造営などの城の再整備が行われました。

この城は守りを重視した堅城というよりは、見せる城だったのではないでしょうか。そして遠くからでも目立つ巨大な天守を造って、豊臣時代の盤石さをアピールしようとしたのだと思います。


松本城の誕生時期

天守が造られたのは、石川数正の息子、石川康長の時(1592年ごろ)だということが、史料などから推測されています。再建された近世城郭建築(黒門、太鼓門など)の原型にあたる建造物はその時に造られたようです。

城の外堀の5か所に出入口「虎口」があります。1729年に描かれたと言われている古地図の「虎口」は武田流馬出しの形状をしています。そのことから、この城の元々の築城者は武田家の誰かではないかと想像されています。また、部分的な発掘調査からも、この基本レイアウトは武田家が支配していた時代(1550~75ごろ)のものだということが推測されるそうです。


松本城の美

黒い下見張りの外壁が戦国時代の物々しさを感じさせる一方で、天守、乾小天守、辰巳附櫓が三角形の美しいプロポーションを見せてくれます。




見学者は北側に設けられた通路に沿って本丸を半周して天守の入口に至ります。入口は天守と乾小天守の間に挟まれた位置にあり、乾小天守の中間階から天守へ移動し、天守の最上階まで登ってから中間階まで降りてきます。そこから辰巳附櫓へ移動し、月見櫓の下の別の出口から外に出ます。

天守と内堀との関係を観察するには、本丸の南側の松本城公園からがいいでしょう。ここは、内堀越しに天守を望む絶景スポットで、広々とした公園になっています。内堀の巾は天守の南正面で約60メートルとのことです。建設当時の鉄砲の射程距離を考慮して決められたようです。


その他の情報

松本市内は周囲を高い山で囲まれた盆地で、山に降った雨が湧水となって市内の至る所で自噴水が噴き出しています。市内各所にある自噴井戸は観光客向けの説明看板が整備され観光名所として整備されつつあります。この城の内堀の水源は、自噴する湧き水かもしれません。




本丸へは、1960年に再建された「黒門」から入ります。付属の門と合わせて「桝形」を形成しています。残念ながら中へ入ることはできません。

本丸御殿、二ノ丸御殿、古山地御殿の3つの御殿があったようです。本丸にあった御殿は1727年に火災で焼失して以来再建されず、それ以降は庭のような空間として使われていたようです。二ノ丸御殿の方は明治に入ってから焼失しています。古山地御殿は小規模なもので、明治に入って取り壊されたそうです。




二の丸の東側の出入り口に「太鼓門」が1999年に再建されています。この門も内部に入ることはできません。

参考文献:「図説国宝松本城」 中川 治雄/著 一草舎出版


施設の情報

松本城

開場時間 8:30~17:00(最終入場16:30)

入場料 700円(大人1人):300円(小・中学生1人)

休み 年末(12/29~31)


 

2020年10月5日

天寧寺:五百羅漢に三方向から睨まれる荘厳な空間

 天寧寺:五百羅漢に三方から睨まれる荘厳な空間



「天寧寺」は滋賀県彦根市にある曹洞宗の寺院です。

この寺院には有名な「五百羅漢堂」があります。

2017年公開の映画「関ケ原」の最初のシーンで、麦わら帽子の少年が、老人の話に聞き入っています。その少年は後に多くの歴史小説を著した司馬遼太郎のようです。次のシーンで、同じ場所で子供時代のの石田三成が豊臣秀吉に茶を差出す有名なエピソードが続きます。この2つの場面が展開する寺の内部は、壁面がすべて五百羅漢に埋め尽くされています。

この映画のロケに使われた印象的な五百羅漢の寺院はどこなのか。実は石田三成がいた佐和山城のすぐ近くにあるこの天寧寺だったのです。佐和山城と天寧寺の位置関係に強いつながりを感じたのですが、残念なことに、映画のシーンに使われたという以上のつながりはありませんでした。

この寺の建立は比較的新しく、1811年、五百羅漢堂の完成は1828年でした。この天寧寺は、彦根城下にあった「宗徳寺」がこの移転されたときに改名し現在の名前になりました。建立した藩主は11代、井伊直中(なおなか)で、井伊直弼の父親でした。



五百羅漢堂


この寺堂には本尊の仏像も正面に安置されていますが、周囲の壁すべてを占める五百体の羅漢は珍しいと思います。

三方向から強い視線を送ってくる五百羅漢とはどういう人達なのでしょうか。

五百羅漢という人達は、釈迦の死後、仏教をより発展させようと開かれた集会で、集会場となった洞窟に入った500人のことを指すようです。ですから羅漢というのは、釈迦の直弟子、宗教セクトの重要人物達ととらえればいいのではないでしょうか。

「禅宗」が勢いを増した「鎌倉時代」ごろに、中国から日本に「羅漢」を彫像として並べ、敬うという習慣が輸入されたようです。




実際に500体の「五百羅漢」を祭るのは、労力的にも、資金的にも大変なことだったと思います。この寺の五百羅漢は、1831年に5年の歳月を費やして京都の仏像彫刻師の手で彫られました。この五百羅漢堂には、500体の羅漢と、その上位の弟子達、合わせて527体の仏像が並んでいます。その荘厳な空間は見たことのない神秘さを湛えています。


施設の情報

天寧寺

拝観料 400円
拝観時間 9:00~17:00




2020年9月29日

妙立寺(忍者寺):寺院の内部は巨大迷路

 妙立寺(忍者寺):寺院の内部は巨大迷路

本堂の入口

「正久山妙立寺」は、金沢市内にある日蓮宗の寺院です。

この寺はとても有名ですが、この寺が有名なのは国宝の仏像が安置されているとかではなく、忍者屋敷のような数々の仕掛けが施されているからです。内部は、29の階段と23もあるという細切れの小部屋で構成されています。アンダーグラウンドの世界に巣くう忍者の巣窟があるのであればこんな建物だったろうと思います。


ポストカードより

見学するには事前に予約が必要です。

そして、寺の中へ入ったら案内人の指示に従って移動し、自由行動することは許されません。とはいえ、案内人なしでは細かい細工に気づかずに通り過ぎてしまい、その醍醐味を味わうことはできないでしょう。

朝早い回のグループに参加したのですが、それでも20人くらいの参加者がいました。本堂の中心部に待機して、歴史的な説明を受けたのち、案内人に従って寺の中を移動します。

本堂の広間での説明の後、裏の通路、地下の隠し部屋へと移動します。外観はいわゆる寺院、しいて言えば併設した庫裏が見えるくらいですが、内部は地下から四階まで重層に積み上がった複雑な構造をしています。武者隠しのような部屋だけでなく、姿を見せずに法要に参加するための部屋とか、茶室のような部屋とか、御座所風の部屋とか珍しい部屋が多数あります。


側面の外観


この寺の細工はいかにも忍者屋敷風ですが、伊賀や甲賀で見た忍者屋敷とは違っている部分もあります。そう思えるのは誰か位が高い人物を他から隠し、その人のための秘密の部屋を用意することに細工の主眼が置かれているように見えるからだと思います。

ですから、「前田家が幕府軍の進攻があった場合、藩主を隠すための秘密基地だった」という話が出てくるのだと思います。荒唐無稽な話だと思うのですが、歴史的な背景をもう少し探ってみました。


この寺がある場所は、金沢城の南、犀川の南岸です。この場所には妙立寺だけでなく、多くの寺院が集められました。

寺院は有事の際に、広い敷地や施設を提供できるので、金沢だけでなく多くの城下町で一つの場所に集められています。ですから、軍事目的で積極的に活用しようという考え方もまんざら否定できません。

また、徳川幕府が外様大名だった前田家を取り潰したがっていた可能性も否定できません。前田家が取り潰されるのを極端に恐れていたのも本当のことのようです。ですが、秘密基地まで用意してしまうと逆効果のように思います。


この寺を軍事基地に転用することを本当に考えていたとすると、大人数の攻撃に対する防御がもっとなされるべきだとおもいます。落とし穴や、細工された小部屋や、たくさんの階段では少人数の襲撃には効果があるかもしれませんが戦争が起こった場合では不十分でしょう。それに、この寺は数十人の部下に守らせるくらいの広さしかありません。


パンフレットより:藩主の居間


さらに、この本堂の背面はすぐに隣の寺の敷地になっていて、寺と寺を分ける小道がすぐ脇をかすめているのも気になります。

藩主がくつろぐ部屋だと説明された部屋は、その小道から丸見えで、そんなところに藩主が潜んでいたら危険極まりない感じです。

そういうことを勘案すると、もう少し別の目的でつくられた空間だと思います。ただ、こんな寺院は見たことがありません。歴史的な説明は無理があるように感じますが、寺院の内部は見学する価値があると思います。


施設の情報

正久山妙立寺

拝観料 1000円(大人・中学生以上1人):700円(小学生以上1人)
拝観時間 9:00~16:00(平日)、9:00~16:30(土日祝) 要予約
休み 1月1日 及び 法要日