天龍寺:創建の陰に後醍醐天皇と足利尊氏の対立
方丈 |
天龍寺は京都市右京区嵯峨にある臨済宗の寺院です。
1339年に足利尊氏が創建した由緒ある寺です。
大阪方面からは、阪急京都線で阪急嵐山駅まで行き、徒歩で渡月橋を渡って天龍寺へ向かうのが便利です。駅から北へ向かう道筋はきれいに整備されていて、公園からは桂川と渡月橋の美しい景色が堪能できます。
渡月橋 |
観光客の受付は、庫裏の切妻(台所や僧侶の住まいがある場所)の壁側にあります。その広い壁面をすべて塗り壁にして、均整の取れた割り付けの柱と梁をわざと見せて、印象的なデザインアクセントにしています。
庫裏 |
建物以外の特徴で注目したいのは、仏像が前面に出てきていないことです。少なくとも見学コース内に仏像は見当たりません。禅宗寺院と言うと、僧侶が修業に励むというイメージが強いと思います。たとえば、修行僧は庭を眺めながら座禅を組むとかです。
方丈の裏庭 |
(景色としても大変美しいので、それだけでもいいように思いますが。)
創建に至る歴史
さて、表題に上げた後醍醐天皇と足利尊氏の対立と、天龍寺の創建の関係について簡単にまとめてみます。
足利尊氏が興した室町幕府はその成立時点では、後醍醐天皇の勢力と対立状態にありました。その後、後醍醐天皇の南朝勢力は衰退し、北朝と室町幕府は繁栄を続けます。その対立勢力の中心人物の後醍醐天皇が急死します。室町幕府は巨大な寺院を建ててその魂を弔おうとしました。
後醍醐天皇像 |
これは、当時の日本では超自然的な力(たとえば、不幸にして死んだ権力者の恨み)が人々の生活に影響するという考えが大きく影響していました。室町幕府は、後醍醐天皇の魂を弔うことで繁栄を祈願したのでしょう。
もう一つは、国家事業としての寺院の建立ということがあると思います。
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天龍寺は、この寺院は誕生してから8度も火災で焼失しています。それは失火による火災もあれば、有名な「応仁の乱」の戦火による焼失もありました。明治維新に至る少し前に京都を戦火に巻き込んだ「禁門の変」による火災でも建物の多くを失いました。
歴史の積み重ねの中で、何度も不死鳥のようによみがえり、現在の天龍寺があるのだと思います。
天龍寺は、「世界遺産・古都京都の文化財」にリストアップされています。
施設の情報
天龍寺
参拝料 庭園のみ:500円(大人1人)、庭園+諸堂:800円(大人1人)
行事等により参拝休止日あり
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