2024年4月3日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その2

 江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その2




第一話をまとめますと、江戸を出発した我々は、12日後、大坂の港に到着したということになります。ここまでの旅は、一定の成果を出しましたが、ここからの旅はより難しい問題に直面することになりそうです。

問題を整理してみましょう。

日本一周するためには、四国の太平洋側を移動して、九州に向かう必要があります。九州でも、交通網が発達した北側の海域ではなく、南側を通過しながら北上し、日本海方面へ向かう必要があります。

まずは最初の問題をクリアするため、四国の太平洋側を移動できる可能性を探りましょう。大坂から四国はそう距離が離れているわけではありません。第一話でも触れましたが、船による旅行は当時一般的ではありませんでした。自国の船舶を所有する大名が、公務で移動することはあったでしょうが、それ以外はごく少数の例外を除けば、そういうことは行われませんでした。そして、その例外の一つが、大坂と四国との間で行われていました。




この運航は、「金毘羅船」と呼ばれるものでした。江戸後期に、四国の丸亀というところにある「金毘羅宮」という神社が庶民の旅行先として注目されていました。当時の一般庶民は贅沢なことは禁止されていて、観光旅行などはもってのほかでしたが、例外として宗教的なこと、神社への参拝は許可されました。(昔も今も人間というのはただまじめに働くだけでは満足できない生き物なのでしょう。)

当時、伊勢神宮や金比羅宮はそういう目的地として全国的に有名でした。旅行に行けるのは限られた人々で、それも一生に一度きりでした。金比羅宮の側から見ると、全国からそういう人たちがこの神社をめがけて押し寄せたため、引きも切らぬ繁盛ぶりということになりました。

ところで、金比羅宮へ行くには、海を渡って四国に上陸しなければなりませんでした。そこに目をつけた大坂の商人によって、旅行客に宿と船を提供する商売が興りました。金比羅船は、順調に進めば、大坂を出て3日半で四国の丸亀港へ入港しました。実際は順調に進むことはほとんどなく、風待ちで5日とか、もっと長い日数待たされて、怒って船旅をやめる人も多くいたそうです。(そういう人は、最短距離の岡山県まで歩いて行って、そこで小舟で四国へ渡ったようです。)

さて本題ですが、我々の旅にこの金毘羅船が利用できるでしょうか?四国の丸亀港から太平洋側の港へ向かう船があれば活用可能ですが、そういう船はありませんでした。なぜなのかは、当時の大名による支配体制が影響していました。複雑な話なので、章を改めて話を進めましょう。




私達が旅行している江戸時代後期の四国は、下図のように複数の大名によって支配されていました。幕府はそれぞれの大名が仲良くすることを嫌いましたので、大名同士が商取引を拡大したり、船舶を行き来させたりということはできませんでした。大名の国同士で交流がなければ、その間の船舶の行き来も成り立ちませんでした。国境にあった村同士では、たまに行き来があったかもしれません。しかし、私たちが期待するような頻度で、かつそれなりの大きさの船舶の移動は期待できませんでした。



もう一度四国の地図を確認すると、太平洋側一帯を支配していたのは、土佐藩という大国でした。土佐藩は必要な財源を得るため、自国の特産物を大坂へ持ち込んで販売していました。土佐藩の場合は、木材が主な特産物で、そのほかには海産物や米などもあったようです。

そういう特産物は、土佐藩が専売する権利を持っていて、一般の商人が取り扱うことはできませんでした。しかし、土佐藩の武士が商売をしてもうまくいくわけはありません。どの藩でも同じですが、藩が特権を与えた御用商人が特産物の売買を行っていました。

木材を大坂へ持ち込んで販売する商人が、土佐藩の本拠地、高知港に居を構えていました。彼らは自前の廻船を持っていて、それを使って大坂へ頻繁に航行していました。

これが、私達の旅にたった一つの光明を与えてくれました。高知港からの商用ルートは、大坂だけでなく下関へもありました。下関との行き来はそれほど頻繁ではなかったようですが、それはこの際、特別ラッキーだったことにしましょう。


旅の続きはこうです。

私達は大坂で高知港の材木商に話をつけ、高知に戻る廻船(たぶんこれも千石船だったことでしょう)に乗船しました。高知港までの移動時間は、まったく資料が見つからずわかりません。大坂に近い丸亀まで最短で3日半ですから、もっとかかったことでしょう。一方で、大坂から江戸の最短の移動時間の記録は6日でしたから、条件が良ければかなり早く着いたかもしれません。

土佐藩は、藩ができた17世紀初めころから船舶の運航技術を高めることに力を注いでいました。大坂から江戸に向かう廻船は常に最先端の技術を駆使していたでしょうから、それに匹敵する航行が地方領主である土佐藩で行われたかは疑問です。地元密着型の、どの場所はどういう危険があるから・・・という無理はしないタイプの航海が行われたと思います。

こうして我々は、大坂港から高知港へ向かい、高知へ上陸しました。そして同様に、高知港から下関港にある材木商の支店への廻船に乗船し、無事に下関の港に到着しました。四国の西側、九州との間の海域は日向灘といって、航行の難所として有名なところでした。この海域を取り囲むように、拠点となる港がいくつか作られていました。本州の端にある下関港、九州の東岸にある細島港などです。

九州に住んでいる人々から見ると、江戸や大坂に向かう場合、船は必ず利用する交通手段でした。たとえば、九州の大名は、江戸に向かうのに船で移動しましたし、彼らが藩の特産物を大坂の市場に持ち込むのも船でした。

四国の太平洋岸への移動ルートがほとんどなかったのに比べて、下関辺りから九州へ向かうルートは多数存在していたのでした。

厳密に言えば、必ず下関に入港したのち大坂方面を目指したのか、下関によらずに瀬戸内海に入るのか判然としません。しかし、下関によらないルートが主体だとしても、一定の割合は間違いなく下関を経由していたと思います。

ここまでは何の準備もない危険な旅の様相でしたが、ここまで来ればあらかじめ掴んでおいた有力な情報が使えることになりました。九州の鹿児島辺りは、薩摩藩が支配していましたが、そこに藩の御用商人で浜崎という人物がいました。浜崎家は、薩摩藩の貿易と海上輸送を大々的に引き受けていた大富豪でした。浜崎家の支店は全国にあり、少なくとも書物に記載されていた場所としては、大坂、長崎、細島、新潟、佐渡、函館、那覇が確認できました。

このリストに下関はありませんが、新潟、佐渡、函館という北前船ルート上に支店を持っている以上、下関には出入りしていたはずです。というのは、北前船は下関を通過しなければ大坂方面へも、逆方向の函館方面へも行けなかったからです。

こうして我々は、下関で浜崎家の関係者を見つけ、途中に細島港に立ち寄ったかもしれませんが、最終的に鹿児島の港に上陸を果たしました。我々の使える情報はどんどん少なくなっていて、移動に何日かかったのかわかりません。とはいえ、鹿児島までは行き着いたわけです。心強いのは、浜崎家の海運ルートを使って函館まで行けそうだということです。

それではこの先は次回のお楽しみということにしたいと思います。





0 件のコメント:

コメントを投稿