2020年11月22日

長谷川家住宅と小津家住宅:松阪にある豪商の住まい

 長谷川家住宅と小津家住宅:松阪にある豪商の住まい



「長谷川家住宅」と「小津家住宅」は、三重県松阪市にある江戸時代に活躍した商人の住まいです。

江戸時代の早いころから、商才のある松阪商人が松阪の特産物の木綿を大消費地「江戸」へ持ち込んで膨大な利益を上げました。その結果、江戸時代の松阪にはその大商人の屋敷が数多く存在していました。


長谷川家住宅

著名な松阪商家の1つ、長谷川家の創業は1675年で、松阪商人の中では最も早く江戸へ進出した木綿問屋のひとつでした。最盛期には江戸で5店舗を経営、従業員は120人余だったとのことです。

彼らの商いのスタイルは、主人一族は松阪に住み、出店を江戸、大阪、京都において、従業員に店の経営をゆだねるやり方でした。具体的には松阪の農家の次男、三男の中から適性のありそうな子を選んで従業員に採用し、江戸、大阪、京都の店舗へ送り込みました。彼らがもし不正を働いたら、実家の一族がひどい目に合うぞというような抑止力になっていたようです。商いの重要な決定は主人が松阪から指示を出し、グループ商店として繁栄し続けました。




松阪に住む主人一族は、もうけを土地と屋敷につぎ込み、その住まいを年々拡大していきました。長谷川家の記録によれば、元は奥行の細長い商家だったものを、儲けるたびに土地を買い増していったようです。次々に増改築を続け、現在の広大な土地を有するようになったのです。

長谷川一族は、支配者である武士の御用を承り、地域社会でも重要な地位を築きました。また、膨大な資産を背景に、国文学、茶の湯、俳諧などのパトロンとなりました。

この屋敷は、松阪の街の中央部、行政の中心施設「勢州奉行所」のすぐ南にありました。江戸時代、この場所は松阪の街を通過する「伊勢街道」(伊勢神宮へ向かう当時の主要街道)の近くで、商家がこの地に集積していました。




現存する主屋は部屋数30余、重要な商品などを保管する蔵は5つ残っています。建設されたのは、1600年代後半から、1900年代初めにかけてで、長期間をかけて増改築を繰り返しています。その規模は、現存する江戸時代からの商家としてはベストテンに入る大きさで、国の重要文化財です。




明治時代に入ると廃止された奉行所の土地を買収して敷地を一挙に倍増させました。封建時代が終わりを迎えたころの長谷川家は、そういう恐ろしいまでの財力を有していたのです。元奉行所があった場所には、広い日本庭園と来客用の座敷と茶室があります。

数年前まで長谷川家住宅は非公開だったようですが、昨今の観光ブームで整備が行われ鑑賞できるようになったようです。見学できるところは限られますが、主屋は主人の居間や、貴賓を迎えるための表座敷などを見ることができます。5つの蔵の内、1つは小規模な展示施設になっていて見学することができますが、残りは未公開です。




日本庭園を望む来客用の座敷と茶室も非公開で、外観を見ることができるだけです。主屋の周りの小ぶりの庭園を通って拡張された敷地に入ることができます。主屋の庭園は、蔵や建物に囲まれた狭い空間で、つつましく商いに精を出したであろう当時をしのばせます。新しい日本庭園は分不相応に広大です。


施設の概要

長谷川家住宅

開場時間 9:00~17:00
入場料 320円(大人1人):6~18歳は160円
休み 月曜日と年末年始


小津家住宅

長谷川家住宅が公開されるまでは、小津家住宅が「松阪商人の館」として先行して整備され公開されていました。小津家の扱い商品は特産品の木綿ではなく、紙問屋でしたが、江戸で大儲けして全国の豪商の番付上位の大商人でした。現存する主屋は1800年代初頭までのいつか分からない時に建設されました。敷地の規模は全盛期の三分の一ほどで、蔵も8つあったようですが、現存しているのは2つだけです。



現存する主屋は街道からはそれほど巨大に見えませんが、内部に入ると高い天井に圧倒されます。
また、店の奥には米を炊く釜がいくつも並んだ広い台所があります。この台所で炊いた米でお伊勢参りの旅人に無償の握り飯をつくって配ったとのことです。




施設の概要

小津家住宅

開場時間 9:00~17:00
入場料 160円(大人1人):6~18歳は80円
休み 月曜日と年末年始



 

2020年11月15日

越前大野城:北陸にある天空の城

 越前大野城:北陸にある天空の城



「越前大野城」は福井県大野市にある城址公園です。

この城は、11月ごろのある条件下で、霧の中に天守のあるエリアだけが浮き出て見える天空の城として有名です。天空の城と呼ばれているので、山城ではないかと思っていましたが、城郭の分類でいえば平山城です。城の前には城下町がつくられ、現在の大野市の中核をなしています。

この城は金森長近という武将が1575年ごろに築城を始めた城です。同じころに織田信長の安土城がつくられています。長近は信長の家臣でしたから、この城は安土城のアイデアを踏襲したのではないでしょうか。

信長のつくった安土城はそれまで主流だった山城スタイルを、平山城スタイルに変革しました。信長のつくった城ですら、安土城より前の岐阜城や小牧城では、山城スタイルの城でした。しかし、たぶん山城に逃げ込むような戦い方では、大軍で攻め込む敵に対しては無力であることを悟ったのだと思います。城の中心部は丘の頂点に設けるにしても、周囲を堀と石垣で囲んで、万が一の時にはその中に大軍が籠城できる平山城という空間をつくり出したのでした。




この越前大野城の城づくりはどうだったのでしょうか。

城山に囲まれた東向きの平地に御殿のある二ノ丸が配置され、それを囲んで三ノ丸、さらに外曲輪が取り囲んでいました。したがって、中心の御殿は三重にガードされ、後ろ側は堅固な城山に守られていました。さらに三ノ丸と外曲輪の外周には塀と堀が存在していたようですが、この塀や堀を長近がつくったのかは不明です。



見方を変えると、この城は御殿の防衛に主眼を置いているともいえます。
御殿を厳重に防御し、それでも守り切れなかったら天守閣のある裏山へ移るという、山城の防御メソッドの延長とも取れそうです。


越前大野城の歴史

この城がこの地につくられたのは、この地を治めていた朝倉氏が、信長に滅ぼされた後、政治的な空白がもたらされたからでした。朝倉氏を滅ぼした信長が長近という家臣をこの地の支配者にすえたのかと思っていましたが、事情は少し違いました。信長は朝倉氏を滅ぼした後、その旧臣の多くを許し、彼らを家臣として召し抱えてこの地を統治させたのでした。




ところが、一年もしないうちに内紛で旧臣同士が戦い、お互いを殺しあった結果、あろうことか宗教勢力の支配する国と化してしまったのです。信長はその結果に怒り、改めて越前に侵攻し、朝倉氏の旧臣勢力と宗教勢力を壊滅させました。この2度目の侵攻作戦の時、長近は美濃から越前に向かい、越前と美濃の間の大野を侵略しました。そしてその功績を認められて大野の支配者となったのでした。

長近は、この地を約10年間支配したのち、次の権力者である豊臣秀吉の命令で飛騨の国へ移りました。そののち、多くの大名がこの地の支配者となりましたが、それ以降だれがどのような工事を行ったかというような話はほとんど記録されていません。その後この城は、越前の中心である福井城の周囲を守る城の一つとして、静かな脇役のまま明治時代を迎えたのでした。



この城が天空の城に変化するのは11月ごろの明け方から午前9時ごろで、大野の盆地に霧が発生するタイミングのみです。
オーロラを見に北欧の国を訪ねたとしても、オーロラに出会えるチャンスがほとんどないように、城の雲海に出会うチャンスも幻のようなものかもしれません。


施設の情報

越前大野城

開場時間 9:00~17:00 (10月・11月は、16:00まで)
入場料 200円(大人1人):中学生以下は無料
休み 12/1~3/31(冬の間は閉館です)



2020年10月20日

臨春閣:池に持ち出して佇む武士の邸宅

臨春閣:池に持ち出して佇む武士の邸宅 




臨春閣がある「三渓園」は神奈川県横浜市にある風景式庭園で、この庭園は、明治時代の実業家、原三渓がつくりあげたものです。その広大な敷地には17棟の歴史的建造物が、風景と調和する形で移築されています。

その中で、もっとも有名な建物が「臨春閣」という数寄屋造りの武家屋敷で、池を中心に3棟の建物が雁行状に配置されています。

この建物は、元々は大阪にあって、大阪の豪商が所有していました。歴史的に価値のある建物の保全に熱心な原三渓が、その建物を購入しこの地に移築したのでした。それが元々は誰の手で造られたのかは明らかになっていません。

今のところ、紀州藩の別荘をもらい受けた武家から豪商の手に渡ったということになっています。この建物には、豊臣秀吉が伏見につくった御殿の一部分だったという逸話もあります。そういう話が出てくるのは、元の所有者が大阪の豪商だったとはいえ、個人の力でつくり上げるにはあまりにも優美な建物だからだと思います。




三渓園が明治時代につくられた時には、一般に公開する目的の「外苑」と、庭の所有者が家族で楽しむための「内苑」に分かれていました。

そして臨春閣は内苑側に移築されています。いやむしろ、この臨春閣を演出するために内苑が設計されたと言えるほど風景にマッチしています。

現在は外苑と内苑のどちらも一般に公開されていますが、内苑の建築物はプライベートで使用されることも多いようです。訪問した時も一部分はお茶会の会場となっていて見学できませんでした。




内苑の入口には京都から移築してきた「御門」という大きな門があります。入ってすぐの場所は、路地のような空間で、足元は敷石が敷かれています。右手に茶室の白雲邸を見ながら路地を進んでいくと、臨春閣の入口が見えます。

左手の小道を進むと、臨春閣の前面に広がる大きな池越しに建物全体を見渡せる広場があります。そこから望む臨春閣はまさに大名の住まいといっても言い過ぎではない優雅さです。

この建物を特に優雅に見せているのは、建物のギリギリ際まで全面の池が迫っていて、池の上にはり出したようにつくられている点ではないでしょうか。建物が庭と一体化しているのです。




多くの研究者が大阪にあったころの建物と横浜へ移築されてからの建物との違いを研究しています。その研究によると、雁行した3つの建物の順番が、移築に際して入れ替えられているそうです。

現在建っている建物は、大阪時代には一番奥にあった部分を中心に持っていき、右手前だった部分を最も奥の左側へ配置し直しています。その際に、奥へ移動させた第3屋は180度回転させて裏だったところを表にもっていき、中央部と奥の第3屋との接合部は付加されています。

この建物は表側の優雅な美しさに比べて、裏側は実はそれほどでもありません。この建物と裏山との間は狭い路地になっていますが、この路地は、一番奥の第3屋と中央部分の第2屋の繋ぎ目のあたりまでは入っていけます。裏側から見ると臨春閣は普通の民家のようで、外壁は置き石の上にのっかっているだけです。こちら側を見る限り、武家屋敷だったという説は疑いたくなります。

この三渓園は臨春閣にだけ注目するのではなく、他の建物にも注目すべきです。広大な敷地にたった17棟の建物が景観にマッチして佇んでいます。その光景は何とも言えず心に感動を覚えます。


施設の概要

臨春閣

開場時間 9:00~17:00
三渓園への入場料 700円(大人1人):200円(小・中学生1人)
休み 年末(12/29~31)

 


2020年10月9日

松本城:黒い天守が水面に輝く城

 松本城:黒い天守が水面に輝く城





松本城は、長野県松本市にあります。

この城は残念ながら城というエリアは維持しておらず、美しい天守とその周辺の本丸が存在しているに過ぎません。

天守のある本丸は、周囲を内堀が囲み、他から隔離された構成となっていました。かつてはその外側に、コの字型の二ノ丸が本丸の南側をカバーする形で取り囲み、その外側も内堀が他とのつながりを遮断していました。ここが城の中核部分で、「内曲輪」と呼ばれていたようです。

その外側に、この内曲輪すべてを取り囲む広大な三ノ丸が存在し、それを取り囲むように広い外堀が四周に存在していました。かつての内曲輪の範囲は広いところで約300メートル、狭いところで約200メートルの長方形でした。三ノ丸と呼ばれたエリアは、広いところで約600メートル、狭いところで約500メートル。これが本来の松本城で、広大な城域を有する平城だったわけです。




豊臣秀吉の時代、徳川家康の関東への移封にともなって石川数正が松本城主となり、天守の造営などの城の再整備が行われました。

この城は守りを重視した堅城というよりは、見せる城だったのではないでしょうか。そして遠くからでも目立つ巨大な天守を造って、豊臣時代の盤石さをアピールしようとしたのだと思います。


松本城の誕生時期

天守が造られたのは、石川数正の息子、石川康長の時(1592年ごろ)だということが、史料などから推測されています。再建された近世城郭建築(黒門、太鼓門など)の原型にあたる建造物はその時に造られたようです。

城の外堀の5か所に出入口「虎口」があります。1729年に描かれたと言われている古地図の「虎口」は武田流馬出しの形状をしています。そのことから、この城の元々の築城者は武田家の誰かではないかと想像されています。また、部分的な発掘調査からも、この基本レイアウトは武田家が支配していた時代(1550~75ごろ)のものだということが推測されるそうです。


松本城の美

黒い下見張りの外壁が戦国時代の物々しさを感じさせる一方で、天守、乾小天守、辰巳附櫓が三角形の美しいプロポーションを見せてくれます。




見学者は北側に設けられた通路に沿って本丸を半周して天守の入口に至ります。入口は天守と乾小天守の間に挟まれた位置にあり、乾小天守の中間階から天守へ移動し、天守の最上階まで登ってから中間階まで降りてきます。そこから辰巳附櫓へ移動し、月見櫓の下の別の出口から外に出ます。

天守と内堀との関係を観察するには、本丸の南側の松本城公園からがいいでしょう。ここは、内堀越しに天守を望む絶景スポットで、広々とした公園になっています。内堀の巾は天守の南正面で約60メートルとのことです。建設当時の鉄砲の射程距離を考慮して決められたようです。


その他の情報

松本市内は周囲を高い山で囲まれた盆地で、山に降った雨が湧水となって市内の至る所で自噴水が噴き出しています。市内各所にある自噴井戸は観光客向けの説明看板が整備され観光名所として整備されつつあります。この城の内堀の水源は、自噴する湧き水かもしれません。




本丸へは、1960年に再建された「黒門」から入ります。付属の門と合わせて「桝形」を形成しています。残念ながら中へ入ることはできません。

本丸御殿、二ノ丸御殿、古山地御殿の3つの御殿があったようです。本丸にあった御殿は1727年に火災で焼失して以来再建されず、それ以降は庭のような空間として使われていたようです。二ノ丸御殿の方は明治に入ってから焼失しています。古山地御殿は小規模なもので、明治に入って取り壊されたそうです。




二の丸の東側の出入り口に「太鼓門」が1999年に再建されています。この門も内部に入ることはできません。

参考文献:「図説国宝松本城」 中川 治雄/著 一草舎出版


施設の情報

松本城

開場時間 8:30~17:00(最終入場16:30)

入場料 700円(大人1人):300円(小・中学生1人)

休み 年末(12/29~31)


 

2020年10月5日

天寧寺:五百羅漢に三方向から睨まれる荘厳な空間

 天寧寺:五百羅漢に三方から睨まれる荘厳な空間



「天寧寺」は滋賀県彦根市にある曹洞宗の寺院です。

この寺院には有名な「五百羅漢堂」があります。

2017年公開の映画「関ケ原」の最初のシーンで、麦わら帽子の少年が、老人の話に聞き入っています。その少年は後に多くの歴史小説を著した司馬遼太郎のようです。次のシーンで、同じ場所で子供時代のの石田三成が豊臣秀吉に茶を差出す有名なエピソードが続きます。この2つの場面が展開する寺の内部は、壁面がすべて五百羅漢に埋め尽くされています。

この映画のロケに使われた印象的な五百羅漢の寺院はどこなのか。実は石田三成がいた佐和山城のすぐ近くにあるこの天寧寺だったのです。佐和山城と天寧寺の位置関係に強いつながりを感じたのですが、残念なことに、映画のシーンに使われたという以上のつながりはありませんでした。

この寺の建立は比較的新しく、1811年、五百羅漢堂の完成は1828年でした。この天寧寺は、彦根城下にあった「宗徳寺」がこの移転されたときに改名し現在の名前になりました。建立した藩主は11代、井伊直中(なおなか)で、井伊直弼の父親でした。



五百羅漢堂


この寺堂には本尊の仏像も正面に安置されていますが、周囲の壁すべてを占める五百体の羅漢は珍しいと思います。

三方向から強い視線を送ってくる五百羅漢とはどういう人達なのでしょうか。

五百羅漢という人達は、釈迦の死後、仏教をより発展させようと開かれた集会で、集会場となった洞窟に入った500人のことを指すようです。ですから羅漢というのは、釈迦の直弟子、宗教セクトの重要人物達ととらえればいいのではないでしょうか。

「禅宗」が勢いを増した「鎌倉時代」ごろに、中国から日本に「羅漢」を彫像として並べ、敬うという習慣が輸入されたようです。




実際に500体の「五百羅漢」を祭るのは、労力的にも、資金的にも大変なことだったと思います。この寺の五百羅漢は、1831年に5年の歳月を費やして京都の仏像彫刻師の手で彫られました。この五百羅漢堂には、500体の羅漢と、その上位の弟子達、合わせて527体の仏像が並んでいます。その荘厳な空間は見たことのない神秘さを湛えています。


施設の情報

天寧寺

拝観料 400円
拝観時間 9:00~17:00




2020年9月29日

妙立寺(忍者寺):寺院の内部は巨大迷路

 妙立寺(忍者寺):寺院の内部は巨大迷路

本堂の入口

「正久山妙立寺」は、金沢市内にある日蓮宗の寺院です。

この寺はとても有名ですが、この寺が有名なのは国宝の仏像が安置されているとかではなく、忍者屋敷のような数々の仕掛けが施されているからです。内部は、29の階段と23もあるという細切れの小部屋で構成されています。アンダーグラウンドの世界に巣くう忍者の巣窟があるのであればこんな建物だったろうと思います。


ポストカードより

見学するには事前に予約が必要です。

そして、寺の中へ入ったら案内人の指示に従って移動し、自由行動することは許されません。とはいえ、案内人なしでは細かい細工に気づかずに通り過ぎてしまい、その醍醐味を味わうことはできないでしょう。

朝早い回のグループに参加したのですが、それでも20人くらいの参加者がいました。本堂の中心部に待機して、歴史的な説明を受けたのち、案内人に従って寺の中を移動します。

本堂の広間での説明の後、裏の通路、地下の隠し部屋へと移動します。外観はいわゆる寺院、しいて言えば併設した庫裏が見えるくらいですが、内部は地下から四階まで重層に積み上がった複雑な構造をしています。武者隠しのような部屋だけでなく、姿を見せずに法要に参加するための部屋とか、茶室のような部屋とか、御座所風の部屋とか珍しい部屋が多数あります。


側面の外観


この寺の細工はいかにも忍者屋敷風ですが、伊賀や甲賀で見た忍者屋敷とは違っている部分もあります。そう思えるのは誰か位が高い人物を他から隠し、その人のための秘密の部屋を用意することに細工の主眼が置かれているように見えるからだと思います。

ですから、「前田家が幕府軍の進攻があった場合、藩主を隠すための秘密基地だった」という話が出てくるのだと思います。荒唐無稽な話だと思うのですが、歴史的な背景をもう少し探ってみました。


この寺がある場所は、金沢城の南、犀川の南岸です。この場所には妙立寺だけでなく、多くの寺院が集められました。

寺院は有事の際に、広い敷地や施設を提供できるので、金沢だけでなく多くの城下町で一つの場所に集められています。ですから、軍事目的で積極的に活用しようという考え方もまんざら否定できません。

また、徳川幕府が外様大名だった前田家を取り潰したがっていた可能性も否定できません。前田家が取り潰されるのを極端に恐れていたのも本当のことのようです。ですが、秘密基地まで用意してしまうと逆効果のように思います。


この寺を軍事基地に転用することを本当に考えていたとすると、大人数の攻撃に対する防御がもっとなされるべきだとおもいます。落とし穴や、細工された小部屋や、たくさんの階段では少人数の襲撃には効果があるかもしれませんが戦争が起こった場合では不十分でしょう。それに、この寺は数十人の部下に守らせるくらいの広さしかありません。


パンフレットより:藩主の居間


さらに、この本堂の背面はすぐに隣の寺の敷地になっていて、寺と寺を分ける小道がすぐ脇をかすめているのも気になります。

藩主がくつろぐ部屋だと説明された部屋は、その小道から丸見えで、そんなところに藩主が潜んでいたら危険極まりない感じです。

そういうことを勘案すると、もう少し別の目的でつくられた空間だと思います。ただ、こんな寺院は見たことがありません。歴史的な説明は無理があるように感じますが、寺院の内部は見学する価値があると思います。


施設の情報

正久山妙立寺

拝観料 1000円(大人・中学生以上1人):700円(小学生以上1人)
拝観時間 9:00~16:00(平日)、9:00~16:30(土日祝) 要予約
休み 1月1日 及び 法要日




2020年9月18日

金沢城:本丸が立入禁止だった巨大な城

 金沢城:本丸が立入禁止だった巨大な城

再建された橋爪門(五十間長屋の一部)

「金沢城」は、石川県金沢市にある城址公園です。この城は、豊臣政権期から江戸時代を通して前田氏の居城でした。

訪れたとき、この城の中心部であるはずの本丸は閉鎖され立ち入り禁止でした。その理由は「この付近でイノシシが目撃されたので、安全のため立ち入りを禁止する」とのことでした。この城は、城の中心である本丸にたどりつけない唯一の城かもしれません。


再建された「五十間長屋」

この公園の中心は「五十間長屋」という再建された建物です。そして、この建物がこの公園の中心的な存在と言っていいでしょう。この建物は、二ノ丸御殿の東正面を守る櫓、長屋、門が複合した巨大な建築物でした。

そしてこの建物に守られた背面には、広大な二ノ丸曲輪があり、そのほとんどを占める広大な二ノ丸御殿があったのですが、現在は広い空き地でしかありません。


二ノ丸内部の空地

五十間長屋の奥はどうなっていたのでしょうか。

二ノ丸の広大な空地の先には「玉泉院丸庭園」という美しく整備された場所があります。綺麗に整備されているので城の主要なな建物があった場所なのかと考えてしまいましたが、元々は城の外周部でした。城内に閉じ込められるのを嫌った歴代城主の1人が、1630年ごろ「金谷御殿」という別荘をつくった場所なのです。


玉泉院丸庭園

現在のこの公園と城の境界ラインはあまりはっきりしていないので、元々どんな感じだったのか想像しづらくなっています。江戸時代にはこの辺りは切り立った崖になっていて、防衛のための建造物もそれほどなかったのだと思います。

二ノ丸の背面の崖地を登ると、現在はただの空き地ですが、かつては「本丸付段」と呼ばれる本丸を防衛するための場所があります。この城は、丘の一番高いところを本丸、それを守る本丸付段、その次に二ノ丸、その手前にさらにいくつかの曲輪というレイアウトでした。

この様な、何重にも防衛された城の中心部の本丸は、逆を言えば奥まっていて不便で、十分な広さがなく、平和な江戸時代にはあまり活用されなくなっていました。広大な二ノ丸にすき間なく二ノ丸御殿がつくられ、そこが江戸時代を通して城の中心部となりました。本丸の建物は江戸時代の初めに火災で焼失してしまい、幕府の顔色をうかがって天守の再建も行わなかったため、ほとんど利用されない場所になっていたようです。

本丸付段には「三十間長屋」という櫓(1853)が現存しています。


三十間長屋

それでは、二ノ丸の手前側はどうなっていたのでしょうか。

二ノ丸の手前には「鶴ノ丸」と呼ばれる場所があり、現在は休憩所があります。遺構としては「鶴丸倉庫」(1848)があります。立地的には、西側の丘の上にある本丸の足元の空間で、小規模な独立した曲輪だったのでしょう。

その手前の三ノ丸には、重要文化財「石川門」(1788)と、再建された「河北門」があります。河北門の先の広大なエリアの先に「大手門口」があります。石川門の先は現在は広い道を挟んで「兼六園」に通じています。


石川門

この城は、平地の中に独立した台地状の部分を城域とした「平山城」です。城に周囲はかつては堀に囲まれていましたが、多くは埋め立てられています。城域を囲む広い道は、かつては広い堀だったのですが、その痕跡は残っていません。外堀の一部分(いもり堀)が再現されています。

周辺地域は町の中心部分にもかかわらず、歴史的な建造物が比較的多く残っています。金沢城の歴史についてもう少し書いてみました。ここをクリックして見てください。


施設の情報

金沢城公園

金沢城「五十間長屋」のみ有料
開館時間 9:00~16:30
入館料 310円(大人1人):100円(小人1人)
年中無休