2024年10月4日

要の城・吉田城

要の城・吉田城





先日、豊橋市の吉田城を訪問しました。現在の吉田城は、大きな城ではありませんでした。また、私たちの知る限り、歴史的に大きな出来事があった場所でもなかったと思います。しかし、少し調べたところ、歴史上大変重要な城であった事を知りました。私たちの印象では、この城は有名でないから、このままでは歴史の闇に葬られてしまうかもしれないと思いました。そういうことにしたくないから、ここでいかに重要な城であったのかを記録しておきたいと思い、この記事を書きました。
  
立地
この城の歴史は、徳川家康の活躍した時期の出来事と大きく関連しています。よく知っていることの繰り返しになるかもししれませんが、もう一度振り返ってみたいと思います。徳川家康は、岡崎城の城主の息子として生まれ、紆余曲折ののち岡崎周辺の支配者となりました。岡崎の西側は、織田信長の領地で、岡崎の東側は、今川氏真の領地でした。さらに、岡崎の北側に支配者はなく、小規模の豪族が支配していました。問題なのはその先で、そのさらに北には、武田信玄の支配地がありました。最後に岡崎の南側は、小規模な豪族の支配地でした。そちら方面に脅威はなかったかもしれませんが、その先は太平洋で、そちらに向かって広げられる領土はあまりありませんだした。

こういう状況に投げ込まれた徳川家康の戦略は明確で、織田信長と同盟し、周囲を攻めるという戦略を取りました。岡崎の南側、岡崎の東側という順で小規模な豪族を攻め、支配地を広げていったのです。岡崎の北側にいる豪族は、徳川家康と武田信玄に挟まれていたので、徳川に攻められれば降伏し、武田が攻めてくれば徳川を裏切って武田につくという、ある意味ずる賢い戦略を取っていました。岡崎の安定を考えれば、北方の支配地を広げたいのはやまやまでしたが、徳川家康にはそれができない状況があったのです。

そういった中、背後にいる今川の勢力が弱まった東側方面への侵略を続け、巨大な湖、「浜名湖」の西側までの、いわゆる三河地域の攻略に成功します。同盟者、織田信長からの要請は、さらに東に向かい、今川を倒すことでした。徳川家康の決断は、その要請に答えることしかなく、浜名湖の東側へ進出する決断をしました。しかも、退去しやすい湖周辺でなく、浜松まで進んで、そこに城を築きました。これも織田信長の要請に答えたものだったと思われます。




経緯
ここまでの経緯を、地図と照らし合わせて、整理しておきたいと思います。徳川家康の本拠地は岡崎城でした。東西に細長い支配地の西側の端に岡崎城はありました。徳川家康本人が進出した浜松城は、この時点での支配地の東側の端にありました。西側の端にある本拠地(息子が城主だった)と、東側の端にある戦略拠点に強力な城がありましたが、中央部分には目立った根拠地はありませんでした。

ここで思い出さないといけないのは北側からの脅威です。領地に面する北側には、強力な敵はいませんでしたが、さらにその北の武田が攻めてきたときには、徳川に味方すると約束していても、すぐに裏切って攻めてくるような豪族がひしめいていました。そういう状況に対して徳川家康が取れる戦略はあまりありませんでした。岡崎城を捨てるわけにはいかなかったので、本拠地はそのままにして、中間地点の吉田城を強化することにしたのでした。ちなみに織田信長は、支配地が広がるにつれ本拠地を果敢に移動させました。しかし、徳川家康にはそれができなかった。織田信長は自分がやっているような合理的な判断を、徳川家康にも要求したと思われますが、本当のことはわかりません。

ここで強化する「中間地点の城」として吉田城が選ばれたのは、岡崎城と浜松城へのアクセスを考慮した結果だと思われます。この当時、吉田城のあったエリアには多くの豪族がつくった小さな城がいくつもありました。ですから、徳川家康にはこの地に城を造るにしろ、選択肢はいくつかあったはずです。別の小さな城を、大きな城へ改修してもよかったし、大きな城を新しく建ててもよかったはずです。もともとあった吉田城を改修したのは、立地条件(他の城へのアクセスの良さ)が理由だったと思います。もう一つ考えられるのは、予想される武田の侵攻を食い止められる城に改修できる地形条件をこの城が備えていたからだと思います。




誕生
このような経緯を経て、吉田城は徳川家康の最も有力な部下、酒井忠次の手で改修されることになりました。吉田城の改修を行った酒井忠次にしてみれば、最前線の戦略拠点、浜松城が建設途中でしたから、それほど大規模な工事は進められなかったと思います。

しかし一方で、最強の仮想敵国、武田が攻めてきた場合、今までの豪族間の小競り合いの戦闘規模で済むとは思えなかったでしょうから、数百人が守る規模の城だった今までの吉田城では、今後想定される戦闘に耐えられるとは思えないという判断が下されたことでしょう。たぶん、数千人が守る規模の城に改修されたと思われます。では、数千人が守る程度の城で、一万人を超える敵が攻めてきたとき、その圧力に耐えられるでしょうか?そこまでの大規模な動員は、可能性が低かったし、この城が改修された時期が、そこまで想像力を膨らませられた時期だったのかはっきりしません。

歴史的にみれば、一万人を超える武田軍が吉田城を攻めた戦いが実際に起こったようです。ある資料によれば、1571年に武田信玄率いる武田軍が、北から侵入し、岡崎城と浜松城の補給線を断とうとしたそうです。別の資料では、それが起こったのは1574年のことで、武田勝頼率いる武田軍の侵攻であったといいます。どちらの説が正しいのかはっきりしていないようです。

戦いの経緯は、吉田城の北東にある支城に、酒井忠次軍が籠って敵をひきつけている間に、5000人余りの徳川家康軍が吉田城に入城しました。支城の守りは手薄で、酒井忠次は500人余りを失い、それを助けようとした徳川家康も2000人余りの兵士を失いましたが、酒井忠次の救出には成功したそうです。その結果、徳川軍は吉田城に籠ることに成功し、包囲戦は長期化するとみられたので、それを嫌った武田軍はさらに戦わず、撤退したそうです。

この戦いが1571年に起こっていたとしたら、1573年に起こった有名な「三方ヶ原の戦い」に匹敵する規模なのに、注目されていないのはなぜなのでしょうか? 一方、1574年に起こったのだとしたら、1575年に起こった、こちらも有名な「長篠の戦い」に比べて、ほとんど語られないのはなぜなのでしょうか? 

我々が考える結論は、武田軍の侵攻と、吉田城での戦いは実際にあったと思いますが、たぶんその規模は記事で語られたものよりずっと小規模だったのだと思います。しかし、その戦いで、万が一にもこの吉田城が落城していたら、岡崎城と浜松城の間は切り離されてしまっていたのは間違いありません。そうなれば、徳川の力は削がれ、最悪は滅亡していたかもしれません。吉田城はこの時期の徳川軍にとって、とても大切な城であったのです。別の表現をすれば、この時期の徳川軍の「要の城」であったのだと言えると思います。





現在の吉田城は・・・
吉田城址では、石垣で囲まれた本丸やいくつかの曲輪を見ることができます。この城跡にある建造物は、資料に基づいて再建された鉄筋コンクリート製の櫓で、資料館になっています。遠方から見れば、天守のようにも見え、城郭址らしい雰囲気を醸し出しています。一方で、三の丸の広大な土地には豊橋市役所のビルが建っていて、城の建物が小さく見えてしまうのが残念なところです。

実は、酒井忠次が改修した吉田城がどんな姿をしていたのか、現在の吉田城の姿から図り知ることはできないのです。酒井忠次の吉田城は、その後支配者となった池田輝政の手で全面的に改修されてしまったため、跡かたもなくなっています。

このあたりの歴史を振り返ってみると、1590年ごろ、豊臣秀吉が日本を支配することになり、徳川家康はその傘下に入りました。その結果、徳川家康は江戸に支配地を与えられ、三河を離れることになります。三河地域には、豊臣秀吉配下の武将が配置されました。吉田城に入ったのは池田輝政で、酒井忠次の時より広い支配地を与えられたので、吉田城はそれにふさわしい広大な城に改修されました。

本丸の石垣はこの池田輝政の時代のもので、酒井忠次の時にも、本丸の周囲に石垣があったのか、それとも石垣は使われずに土塁のみだったのかはよくわかりません。しかし、城の北側に大河があり、本丸の背後はこの川で防御し、本丸の周囲を何重もの曲輪で防御するというレイアウトは同じであったと思われます。

違っていたのは、酒井忠次の時には敵は北東から攻め寄せてきましたから、北東に支城を造ったりして、そちら側の防御が優先されていたと思われます。池田輝政の時には、仮想敵国は、徳川家康の支配する関東でしたから、徳川家康の領地に面した、南側の防御が重視されたと思われます。





石垣の積み直し作業をしていた・・・
本丸の四方は石垣で囲まれていて、正方形の形状をしていました。そして、その四隅には櫓があったようです。というのは、博物館内にこの場所の昔の姿を再現した模型が置いてあって、それがそのようになっていたからです。

本丸の周囲の石垣は、長い間保全が不十分だったことが原因で、近年崩れ始めていました。ところが、昨今のインバウンドブームを当て込んで、吉田城にも外国人旅行者を呼び込もうと考え人がいたようです。その結果、石垣を補修して、吉田城をもっと観光客を呼び込める城に改修する計画が策定されました。この計画は数年前から進められていて、昨年は本丸正面の門周りの石垣の積み直しが行われました。今年は本丸北側の河岸へ降りる辺りの石垣の積み直しが行われていました。そのため、城の見学者が自由に見て回れる範囲が制限されていました。しかし、石垣の補修工事があったおかげで、石を積む職人の姿を見ることができました。そういうチャンスは中々ないので、よいタイミングで訪問したと思いました。

石を積んでいる光景だけでは、どんな成果があったのかわからなかったので、ユーチューブで検索してみると、石垣の積み直しの研究成果を語る動画を発見しました。その動画の説明によれば、現在ある石垣は、池田輝政の造ったものをベースにしているものの、実際に造ったのは江戸時代に城主になった別の人物だったようです。残っている石垣だけでは、だれがそれを造ったかまでは、特定が難しいようですが、数回積み直しがあったらしいということまでは分かっているようです。さて、豊橋市まで行って吉田城を見るのはなかなかマニアックな観光になるでしょう。ですが、敢えてトライしてみるというのはどうでしょうか?








2024年4月22日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その3(ファイナル)

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その3(ファイナル)




第2話では、私達が九州の南、鹿児島港に到着するまでを報告しました。すでにお話しした通り、その途中で重要な出会いがありました。鹿児島から九州の西側を北上し、北側を通り抜け、日本海も北上し、北海道の函館までという広い範囲の廻船ルートを持つ浜崎家と出会ったのです。

鹿児島港の浜崎家を保護し、貿易と海上輸送を命じていた薩摩藩は、江戸時代を通して大国に位置づけられていました。北海道にまで浜崎家の廻船が出向いていたのは驚きでしたが、バックに薩摩藩がついているわけですから、さもありなんとも思います。

ここで一つ専門用語を確認します。この時代の日本海を航行する廻船は「北前船」といい、多くは大坂発、下関経由、北海道着、あるいはその逆でした。日本海は航行しやすい海ではありませんでしたが、多くの商人がこの「北前船」廻船事業に乗り出したのは利益が大きかったからです。

その利益を黙って眺めているような薩摩藩ではなかったのでしょう。薩摩藩は浜崎家を先方として、この事業にも乗り出していたのです。そのことが我々の旅の実現には幸いでした。




さて、鹿児島港を出港した浜崎家の廻船は、長崎港に寄港します。浜崎家は長崎で何の商いをしていたのでしょうか?

長崎港は江戸時代にオランダの交易船の唯一の寄港地として有名でした。しかし、実際の取引は、中国との取扱量がオランダの9倍もありました。薩摩藩は、その中国に海産物や陶磁器(薩摩焼)を輸出していたと思われます。

また、オランダ船の取り扱い品目は、金、銀、銅など以外に樟脳がありました。薩摩藩はこの樟脳をほぼ専売的に取り扱っていました。オランダの東インド会社は香料として自国へ運んだようです。浜崎家の廻船もこのような輸出品の廻船に関わっていたと思われます。

それでは、長崎港と下関港、あるいは日本海方面の「北前船」との関わりは何だったのでしょうか?答えは「昆布」でした。長崎から中国へ大量に輸出された昆布類は、北海道が原産地でした。長崎の商人のグループは、北海道の函館に支店を持ち、その輸送にあたっていたようです。


浜崎家も長崎の商人同様、北海道の産物を長崎港からの輸出品として取り扱うためのルートを日本海に持っていたと思われます。そのルートに乗って、我々は、長崎、下関、佐渡まで移動しました。そして、浜崎家とは佐渡でお別れすることにしました。佐渡で浜崎家の廻船を降りたのは、ここで新たな廻船業者を見つけるためです。

その廻船業者は銭屋と言いました。金沢出身の銭屋は、日本海の「北前船」事業に従事し、江戸、大坂をはじめ全国に34支店を持っていたそうです。我々が銭屋に目をつけたのは、この廻船業者が西回り(北海道から大坂)のみでなく、東回り(北海道から江戸)もルートも持っていたからです。

我々は佐渡で銭屋の廻船に乗船し、北海道まで一気に足を延ばし、函館に到着したのでした。


ここで、北海道の特殊事情を検討する必要が生じました。北海道は江戸時代後期に至っても、先住民が支配する国でした。函館、松前、江差という三都市とその周辺を支配する松前藩の支配地以外に日本人は住んでいなかったのです。

1855年からは、諸外国の侵略に対抗するため、沿岸に入植が始まりましたが、それまでは居住が禁止されていました。したがって、1855年以前は、各地の先住民との商取引のための寄港はありましたが、一時的な行為だったわけです。

さて、函館には銭屋などいくつかの「北前船」廻船業者が拠点を構えていました。一方、多くの「北前船」廻船業者は北海道に拠点を持つまでの勢力はなく、函館、松前、江差へ寄港して、そこで買い付けと、持ち込み品の販売を行い利益を得たのでした。
一部はさらに北の小樽辺りまで出向いて行ったりもしましたが、そのあたりで引き返すのが普通だったのです。

では、我々が達成したいと思っている北海道北端、宗谷岬やその先までの航行を行っていた業者はいなかったのでしょうか?


それこそが、我々が銭屋に目をつけた本当の理由でした。銭屋やその他にも北海道に拠点を置く廻船業者のいくつかは、小樽、利尻という北海道の西側を通り抜け、根室辺りまで出向いていました。

さらにここで、我々の空想の旅が本当に可能であったかを考える上で問題になるのが、廻船業者たちは函館からどちら周りで根室へ行ったかです。

函館が北海道の南端とすれば、根室は北海道東端で、距離からすれば東側を航行した方が短いようです。しかし、商売のために多くの寄港地をめぐるのであれば、小樽、利尻、根室と回った方が多くの港を経由できます。

実は確たる記録を見つけられなかったのですが、このルートが存在したと仮定することにします。
我々の旅は、函館寄港ののち、小樽港、利尻港、根室港と回って、もう一度函館港にもどって、北海道一周を達成しました。

函館に戻ったのは、北海道から江戸方面へ直接移動した廻船の存在がはっきりしなかったからです。仙台港の業者が根室港まで出向いていたらしいので、そこで乗り換えとしてもよかったかもしれませんが、根室港がどんなところだったかはっきりしません。確実な北海道一周の方を選びました。

我々は、函館港から銭屋の東回り廻船で、対岸の青森港へ移動し、仙台港、銚子港、房総半島をぐるっと回って江戸湾に入り、浦賀港に寄港します。そして、江戸の日本橋辺りに停泊し、再び江戸の地を踏むことができました。

この時代に本当にこの冒険を目指した人がいたかどうかは分かりません。我々の旅が、多分にご都合主義だったことは否めませんが、日本一周できることは私達の記述から納得していただけたのではないでしょうか。

旅に要する時間に関しては、江戸から大坂までは一応それなりの信ぴょう性を持った日数で示しましたが、それ以降は不可能でした。日本海の航行は、春から夏が中心で、冬の航行はなかったという記述があります。長崎から北海道に向かうあたりで秋になっていたら、どこかで丸一年足止めを食らっていたのかもしれません。

最後になりますがこの空想の旅で、この時代の日本が、内にこもっていたのではないと分かってうれしく思います。自国周辺の海域とはいえ、縦横で意欲的なトライアルを積み重ねていたからこそ、のちに日本国が海洋大国として名をとどろかすことになったのだと思います。




2024年4月3日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その2

 江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その2




第一話をまとめますと、江戸を出発した我々は、12日後、大坂の港に到着したということになります。ここまでの旅は、一定の成果を出しましたが、ここからの旅はより難しい問題に直面することになりそうです。

問題を整理してみましょう。

日本一周するためには、四国の太平洋側を移動して、九州に向かう必要があります。九州でも、交通網が発達した北側の海域ではなく、南側を通過しながら北上し、日本海方面へ向かう必要があります。

まずは最初の問題をクリアするため、四国の太平洋側を移動できる可能性を探りましょう。大坂から四国はそう距離が離れているわけではありません。第一話でも触れましたが、船による旅行は当時一般的ではありませんでした。自国の船舶を所有する大名が、公務で移動することはあったでしょうが、それ以外はごく少数の例外を除けば、そういうことは行われませんでした。そして、その例外の一つが、大坂と四国との間で行われていました。




この運航は、「金毘羅船」と呼ばれるものでした。江戸後期に、四国の丸亀というところにある「金毘羅宮」という神社が庶民の旅行先として注目されていました。当時の一般庶民は贅沢なことは禁止されていて、観光旅行などはもってのほかでしたが、例外として宗教的なこと、神社への参拝は許可されました。(昔も今も人間というのはただまじめに働くだけでは満足できない生き物なのでしょう。)

当時、伊勢神宮や金比羅宮はそういう目的地として全国的に有名でした。旅行に行けるのは限られた人々で、それも一生に一度きりでした。金比羅宮の側から見ると、全国からそういう人たちがこの神社をめがけて押し寄せたため、引きも切らぬ繁盛ぶりということになりました。

ところで、金比羅宮へ行くには、海を渡って四国に上陸しなければなりませんでした。そこに目をつけた大坂の商人によって、旅行客に宿と船を提供する商売が興りました。金比羅船は、順調に進めば、大坂を出て3日半で四国の丸亀港へ入港しました。実際は順調に進むことはほとんどなく、風待ちで5日とか、もっと長い日数待たされて、怒って船旅をやめる人も多くいたそうです。(そういう人は、最短距離の岡山県まで歩いて行って、そこで小舟で四国へ渡ったようです。)

さて本題ですが、我々の旅にこの金毘羅船が利用できるでしょうか?四国の丸亀港から太平洋側の港へ向かう船があれば活用可能ですが、そういう船はありませんでした。なぜなのかは、当時の大名による支配体制が影響していました。複雑な話なので、章を改めて話を進めましょう。




私達が旅行している江戸時代後期の四国は、下図のように複数の大名によって支配されていました。幕府はそれぞれの大名が仲良くすることを嫌いましたので、大名同士が商取引を拡大したり、船舶を行き来させたりということはできませんでした。大名の国同士で交流がなければ、その間の船舶の行き来も成り立ちませんでした。国境にあった村同士では、たまに行き来があったかもしれません。しかし、私たちが期待するような頻度で、かつそれなりの大きさの船舶の移動は期待できませんでした。



もう一度四国の地図を確認すると、太平洋側一帯を支配していたのは、土佐藩という大国でした。土佐藩は必要な財源を得るため、自国の特産物を大坂へ持ち込んで販売していました。土佐藩の場合は、木材が主な特産物で、そのほかには海産物や米などもあったようです。

そういう特産物は、土佐藩が専売する権利を持っていて、一般の商人が取り扱うことはできませんでした。しかし、土佐藩の武士が商売をしてもうまくいくわけはありません。どの藩でも同じですが、藩が特権を与えた御用商人が特産物の売買を行っていました。

木材を大坂へ持ち込んで販売する商人が、土佐藩の本拠地、高知港に居を構えていました。彼らは自前の廻船を持っていて、それを使って大坂へ頻繁に航行していました。

これが、私達の旅にたった一つの光明を与えてくれました。高知港からの商用ルートは、大坂だけでなく下関へもありました。下関との行き来はそれほど頻繁ではなかったようですが、それはこの際、特別ラッキーだったことにしましょう。


旅の続きはこうです。

私達は大坂で高知港の材木商に話をつけ、高知に戻る廻船(たぶんこれも千石船だったことでしょう)に乗船しました。高知港までの移動時間は、まったく資料が見つからずわかりません。大坂に近い丸亀まで最短で3日半ですから、もっとかかったことでしょう。一方で、大坂から江戸の最短の移動時間の記録は6日でしたから、条件が良ければかなり早く着いたかもしれません。

土佐藩は、藩ができた17世紀初めころから船舶の運航技術を高めることに力を注いでいました。大坂から江戸に向かう廻船は常に最先端の技術を駆使していたでしょうから、それに匹敵する航行が地方領主である土佐藩で行われたかは疑問です。地元密着型の、どの場所はどういう危険があるから・・・という無理はしないタイプの航海が行われたと思います。

こうして我々は、大坂港から高知港へ向かい、高知へ上陸しました。そして同様に、高知港から下関港にある材木商の支店への廻船に乗船し、無事に下関の港に到着しました。四国の西側、九州との間の海域は日向灘といって、航行の難所として有名なところでした。この海域を取り囲むように、拠点となる港がいくつか作られていました。本州の端にある下関港、九州の東岸にある細島港などです。

九州に住んでいる人々から見ると、江戸や大坂に向かう場合、船は必ず利用する交通手段でした。たとえば、九州の大名は、江戸に向かうのに船で移動しましたし、彼らが藩の特産物を大坂の市場に持ち込むのも船でした。

四国の太平洋岸への移動ルートがほとんどなかったのに比べて、下関辺りから九州へ向かうルートは多数存在していたのでした。

厳密に言えば、必ず下関に入港したのち大坂方面を目指したのか、下関によらずに瀬戸内海に入るのか判然としません。しかし、下関によらないルートが主体だとしても、一定の割合は間違いなく下関を経由していたと思います。

ここまでは何の準備もない危険な旅の様相でしたが、ここまで来ればあらかじめ掴んでおいた有力な情報が使えることになりました。九州の鹿児島辺りは、薩摩藩が支配していましたが、そこに藩の御用商人で浜崎という人物がいました。浜崎家は、薩摩藩の貿易と海上輸送を大々的に引き受けていた大富豪でした。浜崎家の支店は全国にあり、少なくとも書物に記載されていた場所としては、大坂、長崎、細島、新潟、佐渡、函館、那覇が確認できました。

このリストに下関はありませんが、新潟、佐渡、函館という北前船ルート上に支店を持っている以上、下関には出入りしていたはずです。というのは、北前船は下関を通過しなければ大坂方面へも、逆方向の函館方面へも行けなかったからです。

こうして我々は、下関で浜崎家の関係者を見つけ、途中に細島港に立ち寄ったかもしれませんが、最終的に鹿児島の港に上陸を果たしました。我々の使える情報はどんどん少なくなっていて、移動に何日かかったのかわかりません。とはいえ、鹿児島までは行き着いたわけです。心強いのは、浜崎家の海運ルートを使って函館まで行けそうだということです。

それではこの先は次回のお楽しみということにしたいと思います。





2024年3月20日

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その1

江戸時代の廻船ルートで日本一周の旅 その1



最近読んだ本に、「江戸時代の日本列島の沿岸航路には、数千隻の千石船が行き交っていた」という記述がありました。また、別の本には、「江戸時代の主要な千石船の航路」という地図が載っていて、その航路は、北は北海道、南は九州までぐるっと日本を一周していました。江戸時代にタイムスリップすることは不可能ですが、もしそれができたとしたら、私たちは日本一周を達成できるのでしょうか。この疑問が本当に実現できるのかを検証してみたいと思います。たらればという要素をふんだんに含むことになりますが、日本一周を目指した旅に出発したいと思います。

江戸時代後期になると、日本中を廻船(商品を運搬する千石船)が行き交っていたのは事実です。廻船は主に生産地から、集積地である大坂と、最大の消費地である江戸を目指して頻繁に航行していました。地図にあるように、廻船の航路は、日本列島を覆っていましたから、理論上は日本一周が可能ではないかと思われます。

まずは出発地点の選定ですが、廻船が最も集中した江戸を出発地点に選びたいと思います。ですが、本当に江戸を出発した旅人が、日本を一周して江戸に再び戻ってくることが可能なのでしょうか。また、江戸から北上して日本を一周するべきなのか、南下していうべきなのかも重大な問題です。

移動していくなかで、どういう問題にぶつかるかまでは現時点で想像できません。したがって、細かい検討は移動した先で行いたいと思います。何度も繰り返してしまいますが、運と資金とを100パーセント持っていたとしても、本当に江戸時代後期に日本一周が可能なのでしょうか。


江戸時代後期の江戸という都市は、世界で最初に居住者が100万人を超えた都市でした。
その住人の生活を支えたのは、海運による物資の供給でした。具体的には、生産地から集められた食料品などが、最大の集積地である大坂に集められ、そこから、最大の消費地である江戸に運ばれました。大坂から江戸に到達した千石船は、江戸で荷物を積み込んでまた大阪に戻りました。

一部は、江戸の北方、例えば仙台藩の領地から、江戸へ直接運ばれる物資もありました。しかし、北への廻船は、南の大坂と比べると格段に少なかったと思われます。また、仙台まで行きついたとしても、その先、北海道方面へ進む廻船がどの程度あるのか今のところはっきりした情報がつかめていません。

どちらも危ない道ということに違いはないのですが、我々は南の大坂に向かいたいと思います。

大坂で集積された物資を江戸に運ぶのは、「菱垣廻船」や「樽廻船」と呼ばれた大規模な廻船問屋の千石船が主体でした。ところが、江戸末期になると、「尾州廻船」という新興勢力が力をつけてきます。どの船を選ぶかはもう少し検討することとしたいと思います。

江戸の浅草に幕府の米蔵があったので、主に大坂から運ばれた米は、日本橋辺りで陸揚げされ、浅草に運ばれました。大坂に戻る便も、このあたりから出発するわけですから、この辺りを拠点に出発する千石船を探そうと思います。

この時代、一般庶民が海路で旅行するということはありませんでした。千石船の乗組員は約15名、航行技術も確立されていませんでしたから、命をかけての航行でした。何の役にも立たない旅行者を乗せるなどということはあまり考えられないことでした。

支配階級の武士が何らかの理由で乗船することはあったかと思います。ただ、この場合も、自国のチャーター便に乗船するという形であったと思われます。

今回は、金を積んで乗船を許されたということにしましょう。

また、新興勢力の「尾州廻船」は、既得権でがんじがらめの江戸には入れず、その手前の浦賀という港へ寄港していました。大坂方面でも、中心地である大坂の港には入れず、その近くの兵庫の港へ寄港していました。そういうこともあって、我々は運よく「樽廻船」の大坂へ戻る船に乗船できたということにしましょう。

江戸から大阪まで、スピード競争のレースでは6日間ぐらいでの航行もあったようですが、通常は12日間程度だったようです。江戸後期になるともはや沿岸沿いを航行するのではなく、外洋を航行しました。帆船ですから、風頼みで、逆風になれば出発地点まで押し戻されるということもあったようですが、今回はうまくいったことにしましょう。きっと荒波にもまれてさぞやひどい船酔いに苦しんだことでしょう。

江戸を出て、浦賀で必要な補給を行い、伊豆半島の下田沖の太平洋を紀伊半島まで航行します。陸地がまったく見えないという航海です。紀伊半島に近づいても、逆風で航行不能にならない限り入港はせず、沖合に停泊してそのまま航海を続けたようです。紀伊半島を越えて、大阪湾に入り、そのまま大坂の港に入港したと思われます。

このあたり、古い記録も少なかったでしょうし、残された記録の解析とその情報公開も進んでいるわけではありません。たぶん間違いないと思われる情報は、今述べたようなことです。

というわけで我々は江戸を出発し、12日後には大坂に到着しました。

これが陸路だとどのくらいを想定することになるのでしょうか。当時の徒歩による移動は、1日40キロメートルで、江戸から京都まで13日かかったようです。これは、江戸から京都までつながっている「東海道」という最も整備されている街道が存在したからです。ただ、途中に大きな河川があり、雨などで川留めされることがあり、移動日数の予定は立てづらかったようです。また、京都から大坂は、川船で約1日、船での移動か特別早いというわけではなかったようです。

江戸を出発して12日後、大坂の地に上陸を果たしましたが、この先はどうなるのでしょうか。日本一周と銘打ったからには、瀬戸内海の最短ルートを取るのではなく、四国方面から九州の南を目指さねばなりません。

そういうルートを発見できるかは、次回のお楽しみということにしたいと思います。⛴



 姉妹ブログ「Explore Inside Japan」には、このブログ同様の歴史上有名な旅行先をテーマにした記事を公開しています。英語版のブログですが、現在91の記事を載せています。ぜひそちらもチェックしてみてください。




2021年1月18日

掛川城に関する追加情報

 掛川城に関する追加情報



掛川城天守(3層4階)は、1993年に木造で再建されました。掛川城天守の再建を請負ったのは鹿島建設でした。以下はそのHPに載っている文章です。

「掛川城天守閣は1596年築造。安政の大地震(1854年)により崩壊したため、幕末に描かれた絵図と天守台の遺構をもとに復元されました。嘉永5年(1852)に伊予松山城天守が築かれてより実に140年ぶりの木造城郭建築であり、日本初の木造完全復元の城となります。」 

木造復元天守で有名なのが、愛媛県にある大洲城(4層4階)です。大洲城天守の復元を請負ったのは安藤ハザマでした。以下はそのHPに載っている文章です。

「戦後、木造による天守の本格的な復元は4件目。安藤ハザマはこのうち、大洲城、白石城の2件を担当し、ほかにも全国各地のさまざまな歴史的建造物の保存・修復・復元に実績を重ね、貴重な文化遺産と伝統技術の伝承に力を傾けています。」


天守の再建にあたっての技術的なハードルになっている建築基準法は、第二次大戦後の昭和25年に制定されました。それ以前の木造再建天守に郡上八幡城と伊賀上野城があります。

郡上八幡城(4層5階)のHPによる解説です。 

「優雅な破風をもつ現在の4層5階の天守閣は昭和8年(1933)に大垣城を参考に模擬天守閣として2つの隅櫓と 高塀とともに全国にさきがけて再建されました。 一部の古図に描かれているようなかつての3層の天守閣とは異にしています。」

「現存する木造再建城としては日本最古の城であり、模擬天守とはいえ築城後80余年を経た天守や櫓は、周囲の自然や風景に見事に溶け込んで風格とその歴史を語っています。」

伊賀上野城(3層3階)のHPによる解説です。

「現在の復興天守閣は、当地選出の代議士、川崎克が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守台に建てたものです。昭和7年(1932)に着工し、昭和10年(1935)10月18日に竣工しました。木造三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守の”昭和の城”は、伊賀地域の文化と産業の振興の拠点として「伊賀文化産業城」と名付けられました。」


木造で再建された天守はいくつあるのでしょうか。

戦前では、1933年再建の郡上八幡城と、1935年再建の伊賀上野城で、いずれも史実に基づかない外観の天守です。戦後のものは、小峰白川城(1991)、掛川城(1994)、白石城(1995)、新発田城(2004)、大洲城(2004)の5つのようです。隅櫓などを数えだすとかなりの数になるようです。また現在のトレンドとしては木造での再建が主流のようです。




木造で再建すると昔の姿がよみがえり、オリジナルと遜色ない本物の天守ができるようなイメージを持つかもしれません。戦前のようにただ天守の再建が叶えば、歴史的事実がどうであろうとかまわないというスタンスの再建はもはやないでしょう。ですが、目に見えない、一般には分かりづらい部分はどうなのでしょうか。

典型的なのは、掛川城の再建天守の断面が描かれたこの壁画タイルです。地下の部分は安全のため鉄筋コンクリートの基礎でつくられています。戦国時代に鉄筋コンクリートはありません。再建木造天守は、見た目は昔のままですが、実は最新の建築技術の賜物なのです。戦国時代の建物を現代によみがえらせたわけではないことにも意識をもっておかないと大きな勘違いの元となると思います。




2021年1月16日

掛川城:木造再建天守と現存二ノ丸御殿

 掛川城:木造再建天守と現存二ノ丸御殿



掛川城は、静岡県掛川市にある城郭です。

掛川駅から500メートルほどのところにお城の入口があります。お城の周りは様々な観光施設が建ち並んでいます。美術館や茶室、移築した武家屋敷、明治時代に建てられたレンガ造りの家屋などです。お城の建物としては、再建された天守、現存している二ノ丸御殿などがあります。

この城のちょうど中央部分、二ノ丸と三ノ丸の境目のあたりを道路が横切っていて城域は分断されてしまっています。そのため、三ノ丸から大手門にかけての領域は、城の領域ではないような印象になってしまっています。二ノ丸、天守側もにかけても、道路があるため本丸へ向かう急な階段がつくられています。建物の配置が無理矢理な感じは二ノ丸御殿にも及んでいて、玄関先の空地が狭くなっていて立派な玄関が引き立っていません。天守と二ノ丸御殿があることでお城らしさは感じられるのですが、お城全体がどういう縄張りだったのかは想像しにくくなっています。


木造再建天守

この天守は1993年に木造で再建されました。3層4階の天守を木造で再建するというのは画期的なことでした。というのは、現在の建築基準法はこの規模の木造を認めていません。したがって、特別な努力があったと思われます。オリジナルの天守の外観を確認できるものはなく、古い図面や高知城の天守が参照され現在の姿が選ばれたようです。




本丸エリアに向かう階段を上り、重厚な城門をくぐると入場券の販売所があり、正面に本丸の空地が見えます。本丸の北側に天守のある小高い丘があり、土塀でガードされた階段を上って天守に向かいます。天守のあるエリアは、天守丸と呼ばれた独立した空間だったようです。

天守丸の東側には、脇曲輪という部分と独立した内堀があったようです。現在は、そのどちらも失われてしまっており、天守丸の東側にある二ノ丸へ向かう狭い通路に変化してしまっています。




内部は、玄関から続く通路を入ると階段を数段上がった天井の高い1階部分に至ります。そこは、展示施設になっていて、甲冑、兜、刀、武器などが展示されています。2階部分は広い一室で天守閣内部の広さを感じます。あまり展示物はなく自由に動き回れます。階段の踊り場のような3階を通過して4階は展望室です。城主はこの位置から掛川の町を一望したことでしょう。とてもよい見晴らしです。

木造再建天守は他にもあるのでしょうか。また、オリジナルとは何が違うのでしょうか。こういう疑問に関してもう少し知りたい場合は、ここをクリックして見てください。


現存二ノ丸御殿

二ノ丸には現在、、1861年に建てられた二ノ丸御殿と、二ノ丸美術館、二ノ丸茶室があります。二ノ丸の庭に立ち西側を見上げると天守を見ることができます。城主はこの庭から天守の雄壮を眺めていたのでしょう。




この城のように(明治時代直前とはいえ)江戸時代につくられた御殿が現存している例はほとんどありません。ですから、とても貴重で重要文化財に指定されています。

内部は、西側が表の空間で、大広間や城主の書院、納戸などがあります。一方、東側は城主の日々の暮らしをサポートする裏方のスペースになっています。台所、家来たちの執務室、倉庫などです。一部の空間は失われてしまっていて、その全容はうかがえません。開放感のある西側に比べて、東側は窓が小さく、部屋の造りも裏方然としていて、薄暗く感じます。




施設の概要

掛川城

開場時間 9:00~17:00
入場料 410円(大人1人):小中学生は150円
年中無休 


2021年1月6日

金沢城に関する追加情報

 金沢城に関する追加情報

師団司令部

金沢城は戦国時代の長い間、この地域を実効支配していた宗教団体が支配する要害でした。その要害が攻略されたのち、その場所が城として再整備されました。その後、前田氏が現在の形に整備したのですが、すぐに江戸時代が到来しました。したがって、この城は、戦国時代の城というよりは、江戸時代の城といっていいでしょう。

明治維新の後の金沢城は、軍事施設として用いられました。陸軍は1893年に師団の司令部を城内に設けました。最外周部の昔ながらの石垣は大方残されたままでしたが、内部の堀は埋め立てられ、歴史的建造物は取り壊されました。そのため、内郭のレイアウトは著しく改変されてしまいました。

第二次大戦が終わると、陸軍は完全に解体され、改変の状況が分かる資料の多くは失われました。主を失った金沢城は、金沢大学のキャンパスとして利用されました。陸軍時代の建造物が大学の教室に転用されたようです。

そして1995年になって、金沢大学が移転すると、再整備されるチャンスやってきました。そうはいっても、無残に取り壊された内部を再現するのは至難の業でした。金沢城に現存する歴史的遺構は、石川門とその周辺の櫓と点在する小規模な建物だけでした。

現在は、2001年に再建された五十間長屋という巨大な櫓が新しい金沢城のシンボルとなっています。2010年と2015年にも堀や櫓を再建して、かつての姿に近づけようとしています。