要の城・吉田城
先日、豊橋市の吉田城を訪問しました。現在の吉田城は、大きな城ではありませんでした。また、私たちの知る限り、歴史的に大きな出来事があった場所でもなかったと思います。しかし、少し調べたところ、歴史上大変重要な城であった事を知りました。私たちの印象では、この城は有名でないから、このままでは歴史の闇に葬られてしまうかもしれないと思いました。そういうことにしたくないから、ここでいかに重要な城であったのかを記録しておきたいと思い、この記事を書きました。
立地
この城の歴史は、徳川家康の活躍した時期の出来事と大きく関連しています。よく知っていることの繰り返しになるかもししれませんが、もう一度振り返ってみたいと思います。徳川家康は、岡崎城の城主の息子として生まれ、紆余曲折ののち岡崎周辺の支配者となりました。岡崎の西側は、織田信長の領地で、岡崎の東側は、今川氏真の領地でした。さらに、岡崎の北側に支配者はなく、小規模の豪族が支配していました。問題なのはその先で、そのさらに北には、武田信玄の支配地がありました。最後に岡崎の南側は、小規模な豪族の支配地でした。そちら方面に脅威はなかったかもしれませんが、その先は太平洋で、そちらに向かって広げられる領土はあまりありませんだした。
こういう状況に投げ込まれた徳川家康の戦略は明確で、織田信長と同盟し、周囲を攻めるという戦略を取りました。岡崎の南側、岡崎の東側という順で小規模な豪族を攻め、支配地を広げていったのです。岡崎の北側にいる豪族は、徳川家康と武田信玄に挟まれていたので、徳川に攻められれば降伏し、武田が攻めてくれば徳川を裏切って武田につくという、ある意味ずる賢い戦略を取っていました。岡崎の安定を考えれば、北方の支配地を広げたいのはやまやまでしたが、徳川家康にはそれができない状況があったのです。
そういった中、背後にいる今川の勢力が弱まった東側方面への侵略を続け、巨大な湖、「浜名湖」の西側までの、いわゆる三河地域の攻略に成功します。同盟者、織田信長からの要請は、さらに東に向かい、今川を倒すことでした。徳川家康の決断は、その要請に答えることしかなく、浜名湖の東側へ進出する決断をしました。しかも、退去しやすい湖周辺でなく、浜松まで進んで、そこに城を築きました。これも織田信長の要請に答えたものだったと思われます。
経緯
ここまでの経緯を、地図と照らし合わせて、整理しておきたいと思います。徳川家康の本拠地は岡崎城でした。東西に細長い支配地の西側の端に岡崎城はありました。徳川家康本人が進出した浜松城は、この時点での支配地の東側の端にありました。西側の端にある本拠地(息子が城主だった)と、東側の端にある戦略拠点に強力な城がありましたが、中央部分には目立った根拠地はありませんでした。
ここで思い出さないといけないのは北側からの脅威です。領地に面する北側には、強力な敵はいませんでしたが、さらにその北の武田が攻めてきたときには、徳川に味方すると約束していても、すぐに裏切って攻めてくるような豪族がひしめいていました。そういう状況に対して徳川家康が取れる戦略はあまりありませんでした。岡崎城を捨てるわけにはいかなかったので、本拠地はそのままにして、中間地点の吉田城を強化することにしたのでした。ちなみに織田信長は、支配地が広がるにつれ本拠地を果敢に移動させました。しかし、徳川家康にはそれができなかった。織田信長は自分がやっているような合理的な判断を、徳川家康にも要求したと思われますが、本当のことはわかりません。
ここで強化する「中間地点の城」として吉田城が選ばれたのは、岡崎城と浜松城へのアクセスを考慮した結果だと思われます。この当時、吉田城のあったエリアには多くの豪族がつくった小さな城がいくつもありました。ですから、徳川家康にはこの地に城を造るにしろ、選択肢はいくつかあったはずです。別の小さな城を、大きな城へ改修してもよかったし、大きな城を新しく建ててもよかったはずです。もともとあった吉田城を改修したのは、立地条件(他の城へのアクセスの良さ)が理由だったと思います。もう一つ考えられるのは、予想される武田の侵攻を食い止められる城に改修できる地形条件をこの城が備えていたからだと思います。
誕生
このような経緯を経て、吉田城は徳川家康の最も有力な部下、酒井忠次の手で改修されることになりました。吉田城の改修を行った酒井忠次にしてみれば、最前線の戦略拠点、浜松城が建設途中でしたから、それほど大規模な工事は進められなかったと思います。
しかし一方で、最強の仮想敵国、武田が攻めてきた場合、今までの豪族間の小競り合いの戦闘規模で済むとは思えなかったでしょうから、数百人が守る規模の城だった今までの吉田城では、今後想定される戦闘に耐えられるとは思えないという判断が下されたことでしょう。たぶん、数千人が守る規模の城に改修されたと思われます。では、数千人が守る程度の城で、一万人を超える敵が攻めてきたとき、その圧力に耐えられるでしょうか?そこまでの大規模な動員は、可能性が低かったし、この城が改修された時期が、そこまで想像力を膨らませられた時期だったのかはっきりしません。
歴史的にみれば、一万人を超える武田軍が吉田城を攻めた戦いが実際に起こったようです。ある資料によれば、1571年に武田信玄率いる武田軍が、北から侵入し、岡崎城と浜松城の補給線を断とうとしたそうです。別の資料では、それが起こったのは1574年のことで、武田勝頼率いる武田軍の侵攻であったといいます。どちらの説が正しいのかはっきりしていないようです。
戦いの経緯は、吉田城の北東にある支城に、酒井忠次軍が籠って敵をひきつけている間に、5000人余りの徳川家康軍が吉田城に入城しました。支城の守りは手薄で、酒井忠次は500人余りを失い、それを助けようとした徳川家康も2000人余りの兵士を失いましたが、酒井忠次の救出には成功したそうです。その結果、徳川軍は吉田城に籠ることに成功し、包囲戦は長期化するとみられたので、それを嫌った武田軍はさらに戦わず、撤退したそうです。
この戦いが1571年に起こっていたとしたら、1573年に起こった有名な「三方ヶ原の戦い」に匹敵する規模なのに、注目されていないのはなぜなのでしょうか? 一方、1574年に起こったのだとしたら、1575年に起こった、こちらも有名な「長篠の戦い」に比べて、ほとんど語られないのはなぜなのでしょうか?
我々が考える結論は、武田軍の侵攻と、吉田城での戦いは実際にあったと思いますが、たぶんその規模は記事で語られたものよりずっと小規模だったのだと思います。しかし、その戦いで、万が一にもこの吉田城が落城していたら、岡崎城と浜松城の間は切り離されてしまっていたのは間違いありません。そうなれば、徳川の力は削がれ、最悪は滅亡していたかもしれません。吉田城はこの時期の徳川軍にとって、とても大切な城であったのです。別の表現をすれば、この時期の徳川軍の「要の城」であったのだと言えると思います。
吉田城址では、石垣で囲まれた本丸やいくつかの曲輪を見ることができます。この城跡にある建造物は、資料に基づいて再建された鉄筋コンクリート製の櫓で、資料館になっています。遠方から見れば、天守のようにも見え、城郭址らしい雰囲気を醸し出しています。一方で、三の丸の広大な土地には豊橋市役所のビルが建っていて、城の建物が小さく見えてしまうのが残念なところです。
実は、酒井忠次が改修した吉田城がどんな姿をしていたのか、現在の吉田城の姿から図り知ることはできないのです。酒井忠次の吉田城は、その後支配者となった池田輝政の手で全面的に改修されてしまったため、跡かたもなくなっています。
このあたりの歴史を振り返ってみると、1590年ごろ、豊臣秀吉が日本を支配することになり、徳川家康はその傘下に入りました。その結果、徳川家康は江戸に支配地を与えられ、三河を離れることになります。三河地域には、豊臣秀吉配下の武将が配置されました。吉田城に入ったのは池田輝政で、酒井忠次の時より広い支配地を与えられたので、吉田城はそれにふさわしい広大な城に改修されました。
本丸の石垣はこの池田輝政の時代のもので、酒井忠次の時にも、本丸の周囲に石垣があったのか、それとも石垣は使われずに土塁のみだったのかはよくわかりません。しかし、城の北側に大河があり、本丸の背後はこの川で防御し、本丸の周囲を何重もの曲輪で防御するというレイアウトは同じであったと思われます。
違っていたのは、酒井忠次の時には敵は北東から攻め寄せてきましたから、北東に支城を造ったりして、そちら側の防御が優先されていたと思われます。池田輝政の時には、仮想敵国は、徳川家康の支配する関東でしたから、徳川家康の領地に面した、南側の防御が重視されたと思われます。
石垣の積み直し作業をしていた・・・
本丸の四方は石垣で囲まれていて、正方形の形状をしていました。そして、その四隅には櫓があったようです。というのは、博物館内にこの場所の昔の姿を再現した模型が置いてあって、それがそのようになっていたからです。
本丸の周囲の石垣は、長い間保全が不十分だったことが原因で、近年崩れ始めていました。ところが、昨今のインバウンドブームを当て込んで、吉田城にも外国人旅行者を呼び込もうと考え人がいたようです。その結果、石垣を補修して、吉田城をもっと観光客を呼び込める城に改修する計画が策定されました。この計画は数年前から進められていて、昨年は本丸正面の門周りの石垣の積み直しが行われました。今年は本丸北側の河岸へ降りる辺りの石垣の積み直しが行われていました。そのため、城の見学者が自由に見て回れる範囲が制限されていました。しかし、石垣の補修工事があったおかげで、石を積む職人の姿を見ることができました。そういうチャンスは中々ないので、よいタイミングで訪問したと思いました。
石を積んでいる光景だけでは、どんな成果があったのかわからなかったので、ユーチューブで検索してみると、石垣の積み直しの研究成果を語る動画を発見しました。その動画の説明によれば、現在ある石垣は、池田輝政の造ったものをベースにしているものの、実際に造ったのは江戸時代に城主になった別の人物だったようです。残っている石垣だけでは、だれがそれを造ったかまでは、特定が難しいようですが、数回積み直しがあったらしいということまでは分かっているようです。さて、豊橋市まで行って吉田城を見るのはなかなかマニアックな観光になるでしょう。ですが、敢えてトライしてみるというのはどうでしょうか?